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No.696

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#銀嶺の獣
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 山の天気が変わるのは、突然だった。
 散歩の間に吹雪に吹かれたゼルデデは、連れていた一人と一匹を軽々とかつぎ上げた。
「わっ」
 と驚く小さな声には気にも留めず、少し歩いた場所に突然現れた洞窟に潜り込む。雪の中にぽっかりと開いた入り口は随分と狭く見えたが、彼は一切の躊躇を見せることなく、その中へ入っていった。
 薄暗い闇の中に下ろされた二人は、冷たい雪の張り付いた顔を見合わせた。
 ゼルデデはただ一言
「そこにいろ」
 と呟き、奥へと歩いていった。
 目の前には、外の雪のわずかな光も届かない闇が広がっている。オオカミのアルには、この洞窟がどれほど広いのかも見当がつかなかった。音の響き方と、並の人間より背の高いゼルデデが難なく歩けるところを見るに、洞窟の天井は随分と高さがあるようだった。
 外の吹雪はひどくなる一方だった。しかし、その冷気を含む風は外をごうごうと通り過ぎるだけで、洞窟の内側へ吹き込んでくる風は、ほんの少しだけだった。ひゅうひゅうと、耳をつんざくような高い音が響く。
 アルはニーナが冷えないように、その分厚い毛皮をぎゅっと近寄せた。
 洞窟の奥で、ゼルデデは何かがたがたと音を立てている。状況がまだあまり理解できていない様子の少女は、呑気に質問を投げ掛けた。
「ねー、何してるの」
 その高い声は、洞窟の中にわあんとこだました。絶えず反響している外の風音と重なって、耳の奥が揺らされる。
 ゼルデデはただ一言
「準備」
 とだけ返事をした。暗い中で何をしているのか、ニーナの視界にはほとんど映らない。
 やがて彼は入口付近に戻ってきた。それから、どうにか吹雪の風が当たらないくらいの場所に座ると、手に持ってきた枝をがさがさと置いた。服から火打石を取り出し、手慣れた様子で布の切れ端に火を点ける。その火口の火は枯れ枝に燃え移り、やがて小さな焚き火となった。
 ニーナとアルはぴったりくっついたまま、そこへ近付いた。
「あったかいねぇ」
 少女は手をかざして、にこにこと微笑む。
 火は辺りをぼんやりと照らし、洞窟の高い壁に大きな影を作った。それはまだ小さかったが、雪に凍えた彼らにとっては何よりも頼もしい暖かさだった。
 ゼルデデは黙って、火の様子を見ながら淡々と枝を投げ込んでいく。枝はぱちぱちと音を立て、段々と火の勢いも強まってきた。
 洞窟の壁に、三つの大きな影がゆらゆらと映る。
『よく燃やせるような枝があったな』
 それは二人にだけ聞こえるアルの声だ。
 ゼルデデは火から一切目を離さずに、ぼそぼそとした低い声で答える。
「この辺りはよく通るから、こういう時のために、時々物資を補給しているんだ。……奥に小さな縦穴もあるから、換気も心配ない……良い場所だ」
 そこでオオカミは改めて周囲を見回した。少し明るく照らされた辺りを見れば、火を焚いた跡や掃除をした形跡が見えた。
『へえ、避難所ってとこか。こういう場所は他にもあるのか?』
「……何か所か、ある」
 会話はそれきりだった。
 暖かな炎に照らされた空間には、ごうごうと強まる風の音が、くぐもって響いていた。
 焚き火が安定してくると、ゼルデデは雪で濡れた上着を脱いだ。上着の表面が乾くように焚き火のそばに広げ、いつの間にか外していた仮面をその上に静かに置く。
 ゼルデデが焚き火に向かってどっしりと腰を下ろすと、アルとニーナはいそいそと移動し、彼を挟むようにぴったりと座り込んだ。

「ねえゼルデデ、お話して」
 ニーナはそう言ってゼルデデを見上げる。目が合うと、少女の金と青の大きな瞳はぱちぱちと瞬きをした。大男は僅かに眉をしかめる。
「話、だと?」
「うん!」
「……話すことなど、ない」
 考える素振りもなく、ゼルデデは首を横に振った。
 その態度に、少女は頬を膨らませる。
「作り話でも、昔話でも、何でもいいんだよ。このままじゃ眠くなっちゃう! ねえ、アルもそうでしょ?」
『オレは別に……』
 オオカミはそう言いかけて、目の前にいる少女のしかめっ面の意味を汲み取った。ここで少女の機嫌をとらないと、後々面倒なことになりそうだ。
『ゼルデデ、オレもお前の話が聞きたいな。お前はこの中で一番長生きだから、色んな話を知っているだろ』
 男は眉をさらに曲げ、一人と一匹の顔を見やった。左右から投げられる視線は、純粋で期待に満ちている。
 彼は眉間の皺に手を当てて、低く長いため息をゆっくりと吐きだした。
 それからさらに少し間をおいて、彼は観念したように口を開いた。金色の目に、焚き火の明かりがちらつく。
「……俺が子どもの頃に聞いた話だ。昔、とある村に男が住んでいたという。彼はたいへんな正直者で――」
 普段とは違う朗々とした語り口に、ニーナとアルは一瞬目を合わせた。
 その驚きは、話に聞き入っていくとすぐにどこかへ行ってしまった。それはどこにでもあるような昔話だった。けれど、彼の紡ぐ言葉には、まるでその話を本当に見てきたかのような様子があった。
 低い声で紡がれる語りが、洞窟内にこだまする。
 うなる風音が、枯れ枝がはじける音と重なり、歌のように響いていた。

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2026/2/1 加筆修正
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