2023年11月29日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

夜と蛍石

 確かそれは、ある夏のはじめのことでした。
 日も落ちて、空の色が東からだんだんと暗く変わってゆく時、辺りには青い草の匂いが濃く満ちていました。
 昼間に降った雨のおかげで、辺りの空気はうっすらと湿っていて、暑さも少し静まったようです。足元からは、ころころとカエルの鳴くのが聞こえていました。
 私はその夜、どこか星でも見に行こうと、田んぼの近くの田舎道を、一人で歩いていたのです。
 しばらく歩くと、空はさらに重たい色になってきて、辺りはいっそう暗くなりました。空に雲は出ておらず、月はすっかり痩せて、辺りを照らすものはありませんでした。
 私は、持っていた小さな懐中電灯をぱちんとつけました。足元には、黄色い丸に照らされた地面が、ぼうっとうかびます。
 目的地を決めていなかったので、しばらくの間、そうして田んぼの間の道をふらふらと歩くことになりましたが、夕闇の散歩も楽しいものでした。
 そうして空に少しずつ星がでてきた頃です。私は、道の先に何か生き物がいるのを見つけました。
 それは、タヌキやイタチに比べては大きい影でした。
(あれは犬だろうか。それにしては、どこかおかしいな)
 私はちょっと離れた所で立ち止まって、そう考えました。けれど、どこがおかしいのか、いまいちはっきりと分からないのです。それで、もう少し近くのほうで見てみようと、こっそり近寄ってみることにしました。
 近づいてみると、なるほどおかしいわけが分かってきました。四つ足の動物のような形をしたそれは、夜の暗闇の中で、ぼんやりと青く光っているようなのです。
 光っているだけではありません。見た目もどうもちぐはぐでした。大きさは中型犬くらいでしたが、顔は犬というよりも、熊みたいに丸っこく、手足や胴はずんぐりと短くて、どうも不細工なのです。
 私は、どこか熊の子どもにも似ているな、と思いました。けれどそれにしても、猫みたいに長い尻尾があるのは不自然です。それに、そもそも青く光る動物だなんて、聞いたこともありません。
 私は、驚かせてはいけないと思い、懐中電灯は向けずにいましたが、子ぐま――その生き物が何なのかは分かりませんでしたが、私はひとまずこう呼ぶことにしました――は、丸くてまっ黒な目で、何か探し物でもしているように、辺りをきょろきょろと見回していました。
 子ぐまはしばらくの間そうしていて、私がいることにも気づかないようでした。私は、子ぐまの仕草がなんだかとても可愛らしくなって、怪しいのも忘れて、つい
「やあ」
と声をかけました。
 すると子ぐまは背中をびくっとさせ、瞬間、一メートルほど後ろに跳びはねました。
 それに私も驚いてしまって、思わず声をあげてしまいましたが、子ぐまはその場から、それ以上逃げる様子はありません。
 子ぐまは、青く光る毛の中のまっ黒の目で、私のことをじっと見ていました。怯えているのか、警戒しているのか、それとも怒っているのか、分かりませんでした。
 私は、驚かせてしまって申し訳ないことをした、と思うと同時に、どうして逃げ去らないのだろう、と不思議になりました。そこで、周りにほかに人がいないのを見てから、半分は独り言のつもりで、こう尋ねたのです。
「子ぐまくん、君は迷子かい」
 子ぐまは黙ったままで、首をこくりと動かしました。私は、おや、と思いました。その子ぐまの動きが、どうも私の質問に対して、頷いたように見えたのです。私は少し考えて、いや、きっと気のせいだ、と思いました。
 けれども、私はだんだんと好奇心がわいてきて、まだ逃げるそぶりのない子ぐまに、今度はこう言いました。
「なあ、君は私の言っていることが分かるのかい」
 子ぐまはまた頷きます。今度は確かに気のせいではなく、はっきりと首を縦に振りました。どうやら本当に、私の言葉が分かっているようでした。
「君は熊の子かい? ずいぶん変わった姿をしているね。近くで見ると、まるで星雲か天の川みたいで、とても綺麗だ」
 私がそう話しかけると、子ぐまは今度は口を開いて
「ええ、ありがとうございます。いつもは空に住んでいるものですから」
 なんて喋ったので、私はまた驚いて、一瞬、口をぽかんとして何も言えずにいました。すると子ぐまは近寄って、私の方を心配そうに見つめてきました。
「あのう、人間さん、大丈夫ですか」
 私は、目の前でそう言う子ぐまを見ながら、今晩はなんておかしな夜なんだろう、と思いました。
 現実というにはあまりにおかしなことばかりでしたが、それにしても、夢の中というには、現実みたいにはっきりとしているのです。けれども、こんなにおかしなことにそれほど驚かないのでは、夢の中に違いない、とも思うのでした。
 けれども私は、ひとまずここは楽しんでみよう、と考えました。なんたって、もしこれが夢の中であったとしても、こんなに面白い話は初めてでしたから。
 私は、わざと独り言のようにして、こう言いました。
「どうもおかしな夢だなあ。喋って光る子ぐまなんて初めてだよ」
「驚かせてしまったのなら、ごめんなさい。人間さんが親切なお方に見えたので、つい、話しかけても大丈夫だろうと思ってしまったのです」
 子ぐまの話し方は、どうも見た目に似合わない、丁寧なものでした。私は少し気をよくして言いました。
「空から来たっていうのは、本当のことなのかい」
「ええ、普段なら、ずっと空に浮かんだままでいられるのですが……」
 子ぐまはそこで口ごもって、それから、なんともきまり悪そうに言いました。
「どうやら落ちた時に、星を一つ無くしてしまったみたいで、そのためにまた浮かぶことができなくなってしまったのです。それで、親切な人間さんにひとつお願いがあるのですが、どうか僕の星を一緒に探してはくれないでしょうか。もちろん、お礼はいたしますとも。星がないと、空へ帰れないのです」
「ああ、構わないよ」
 私は子ぐまを気の毒に思って、迷わずそう答えました。
 子ぐまは安心したようで、ほっと息をついて、ありがとうございます、と頭を下げました。
 私は、育ちのいい熊なんて初めてだ、と思って、くすっと笑ってしまいました。
 私は子ぐまの話を聞きながら、この生き物を、どこかで見たことがあるようだと考えていました。
「それで、君が落としたのはどんな星なんだい」
 私がそう聞くと、子ぐまは言いました。
「ポラリス星っていうんです」
「ひょっとして、ポラリスというと、北極星のことかい」
 私は驚きました。子ぐまは頷いて、話を続けます。
「ええ、そうとも呼びます。真っ白なやつで、僕のしっぽの先についていたのです。大ぐまの柄杓星やカシオペヤに比べれば、あまり明るくはないのですけれど。落ちる瞬間、真下に落ちていくのを見ましたから、きっとこの近くにあると思うのです」
 私はそれでひとつ合点がいきました。
 ポラリス――北極星のことを、こう呼ぶことがあるのですが――は、長いしっぽを持つ子ぐま座の、ちょうどそのしっぽの先のあたりにくるのです。それで私は、この子ぐまは確かに、夜空にいた子ぐま座らしい、と考えたのでした。
「それなら、空の上じゃあ君がいなくなって大変なんじゃないのかい。早く星を見つけたほうがいいね」
 私がそう言うと、子ぐまは笑って答えました。
「ありがとうございます。人間さんはなんて優しいんでしょう」

 そうして、私と子ぐまは並んで歩きだしました。
 子ぐまは長いしっぽを立てて、地面の匂いをかぎながら歩いています。私は、なんだか犬でも散歩しているみたいだ、と思いました。
 私は、ふと気になったことを訊ねてみました。
「子ぐまくん、君は何だって、空の上から落っこちてしまったんだい」
 子ぐまは歩きながら、少し首をひねって考えて、それからこう言いました。
「なんとも恥ずかしいお話なのですが……。地面のほうで、何かぴかぴか光っているのが見えたんです」
 子ぐまは、ここに来るまでのことを話し始めました。彼の話によると、その光は、毎日夜になると見えていたというのです。
 子ぐまは、それが何なのか気になって仕方がなかったのですが、他の星座――大ぐまやカシオペヤには、笑われてしまいました。皆は、あれもただの星だと言うのです。けれど、子ぐまにはそうは思えませんでした。その光は、彼らの周りにあったどんな星とも違って、ちかちかと、不思議な光り方をしていたからです。
 それで、もっとよく見てみようと下を見ようとしたところ、バランスを崩して、ポラリス星が落っこちてしまったらしいのです。星を無くして浮かべなくなってしまった子ぐまは、そのまま真下に落ちてしまった、ということでした。
「――けれども落ちたところには、光るものは何もないじゃあありませんか。僕はそれで、星を無くしてしまったのもあって、重ねて悲しくなっていたんです」
 子ぐまは、本当に悲しそうに言いました。
「人間さん、どうかこの辺りに、星以外に光るものをご存知ありませんか。それが何なのか、一目見てみたいのです」
 今度は私が首をひねりました。というのも、子ぐまのいた場所から見える景色というのが分からないので、さっぱり想像がつかないのです。
 もしかしたら、町の明かりのことかもしれない、と考えて、私は口をつぐみました。もしそうだとしても、ここは町からずいぶんと離れているので、子ぐまに見せてやるには無理そうだと思ったのです。
 そうしてしばらく考え込んでから、私はひとつ思いついて言いました。
「君たちのいる場所から見えたものかは分からないけれど、いいものを見せてあげようか」
「本当ですか」
 子ぐまの表情は、ぱっと嬉しそうになりました。
 私は歩くルートを変えて、少し山の近くのほうへ行くことにしました。
 ある道へ出ると、そこは林のすぐそばで、ガードレールの向こうは茂みばかりのように見えました。けれどもその中には、細いけれども水の澄んだ、小さな川が流れているのです。
 この辺りが良いだろう、という所まで歩いてきて、私は懐中電灯の明かりを消しました。すると、目が明るさに慣れていたからでしょう、辺りはぱっと、真っ暗闇に包まれました。近くに外灯はなく、私の目には、足下で子ぐまの体が青く光るのだけが見えていました。
 やがて少し経つと、私の目は暗闇に慣れてきて、周りの景色がぼんやりと見えてきました。
 それが見えた瞬間、子ぐまにも同じものが見えたようで、隣から
「あっ」
という、小さな声が聞こえました。
 それは、川の上を飛び回る、小さなたくさんの光でした。淡く黄色いその灯りは、ゆるやかに点滅しながら、あちこちをふらふらとさ迷うように、細い線を描いています。
 暖かいようにも冷たいようにも感じられる、その不思議な光は、絶えず動き回っていて、水面をうっすらと照らしています。それはまるで、川を泳ぐ魚たちや、光るくらげのようにも見えました。
 子ぐまは、その景色にすっかり心をうばわれたようで、しばらく何も言いませんでした。それから、どうにか聞き取れるくらいの小さな声で、ささやくように尋ねました。
「あの光は、何ですか」
「あれはホタルだよ」
 私がそう言うと、子ぐまはまた黙りこんでしまいました。
「初めて見たかい」
 そう聞くと、少し間をおいてから、子ぐまが答えました。
「ええ。僕が見た光とは違いますが、まるで生きているみたいな、不思議な光ですね」
 子ぐまの顔は暗くて見えませんでしたが、その声がうっとりとしていたのが、なんだか微笑ましくなって言いました。
「あれはね、一つひとつが生きているんだよ。きっとホタルの一匹一匹が、君たちみたいに、体の中に星をもっているようなものだろうね」
 子ぐまは感心した様子で、ひとつため息を吐きました。
 私はガードレールをひょいと越えて、草の茂みを川のほうへ降りてゆきました。雨が降ったせいで、辺りの草は水滴で濡れていて、ひざの下が濡れましたが、構いませんでした。
 私は靴が水に浸からない、川のふちぎりぎりの所まで行きました。ホタルは変わらず、自分の周りを囲うようにふらふらと飛んでいます。
 私は、両手をお椀のような形にして、その一つに狙いを定めました。そうしてホタルが飛んできた所へ、すばやく手を近づけ、それをぱくんと閉じると、小さな明かりは手の中へとおさまりました。
 私はそのまま、また草をかきわけて、道へ戻って行きました。子ぐまは聞きました。
「いったい、何をしたんですか」
「この中を覗いてごらん」
 そう言って手を差し出すと、子ぐまは寄ってきて、顔を近づかせました。私が親指をそっとずらして隙間を作ると、子ぐまは小さく歓声をあげました。
「どうだい」
「なんて小さな生き物なんでしょう」
 子ぐまは覗き込んだままそう言って、その一匹のホタルに、しばらく心をうばわれたようにしていました。
 それからゆっくり顔を上げると、彼は丁寧にお礼を言いました。
「素敵なものを見せてくださって、ありがとうございます」
「思い出にでもなってくれたなら、嬉しいよ」
 私と子ぐまは嬉しくなって、お互いに笑いました。
 私は川に戻って、捕まえたホタルをそっと帰しました。ホタルはふらふらと飛んでいって、また他の光と見分けがつかなくなりました。
 そうして道に戻ろうとした時、川の少し下流のほうに、ひときわ白く輝く、不思議な光がひとつ見えました。
「何か光っているよ。あれは何だろうね」
 私がつぶやくと、子ぐまはあっと声をあげました。
「あの光は、僕のポラリス星によく似ています。もしかしたら……」
 子ぐまはそう言って、ガードレールを越えてこちら側へ来ようとしてきたので、私は子ぐまを止めました。
「君の短い足じゃあ、きっと危ないだろう。私が代わりに取って来るから、そこで待っていなよ」
 子ぐまは少し困った顔をしたけれど、すぐに、ありがとうございます、と頭を下げました。靴を脱いで川の中を進むと、冷たい水が、それほど速くない流れで私の足を包みました。
 幸いそれは、川のあまり浅くないところに沈んでいました。手にとってみると、三センチくらいの小石のようで、手に握っていても光っているのが分かるほど、眩しいものです。表面は、川の水と同じくらいに冷えていましたが、少し握っていると、すぐに人肌と同じくらいの温度になりました。
 私は靴と小石を持つと、裸足で草を踏むのも気にせず、急いで道へ戻りました。そして光る小石を子ぐまに見せると、子ぐまはぱっと目を見開いて、それから、興奮した様子で叫びました。
「ああ、これは確かに僕のポラリス星です! ありがとうございます、人間さん!」
 そう言って、子ぐまが嬉しそうに飛び跳ねるのを見て、私も嬉しくなって笑いました。それから、わざと真面目っぽく、冗談めかして子ぐまにこう言いました。
「じゃあこれを、子ぐま君のしっぽへお返しするとしよう」
「はい」
 子ぐまは、少し照れくさそうに咳ばらいして、私の手のひらの小石を、しっぽで受け取りました。小石は、子ぐまの尾に包まれたと思うと、その先っぽに、すいと入り込みました。
 その星は、しっぽに入った瞬間小さくなったように見えましたが、それでも、子ぐまの中で光るどの星よりも明るくて、まるでずっと前からそこへあったみたいに、しっぽの中で静かに燃えていました。
「とても綺麗だ。やっぱり、その星は君のものだね」
 そう言うと、子ぐまは嬉しそうにはにかみました。
「ありがとうございます。人間さんのおかげです」
 それから子ぐまは、思い出したように言いました。
「ああそうだ、約束の通り、お礼をしなきゃなりませんね」
「お礼なんて、そんなの構わないよ」
 私はそう言いましたが、子ぐまはそれでも首を横にふりました。
「そんなわけにもいきません。このまま空に帰ったら、僕のほうが他の星座たちに怒られてしまいますから。ほらどうぞ、これを受け取ってください」
 私は仕方なく、子ぐまのほうに手を差しだしました。子ぐまは長いしっぽで、耳の後ろの辺りをさぐると、そこから何か小さなものを取り出して、私の手のひらに置きました。
 それは小石のようでしたが、さっきのポラリスとはずいぶん違った見た目をしていました。ポラリスよりもいくらか小さくて、私の手の上で、ぼんやりと淡く青色に光っているのです。触った感じは、ポラリス星とよく似ていましたが、握ってみても温かくはならずに、ひんやりと冷たい温度を保っていました。
 懐中電灯で照らしてみると、それはまるで川の水のようにうすい青緑色の、半透明のガラスのように見えました。
 それは、いつかどこかで見た、青く澄んだ色の蛍石を思い出させました。私はしばらくの間、その小石にじっと見とれてしまいました。
「すべすべして、とても綺麗だ。こんな素敵なもの、もらってしまっていいのかい」
「それは僕の中の、いちばん暗い星です。こんなもので申し訳ないのですが、人間さんに差し上げます」
「ありがとう。大事にするよ」
 そうお礼を言うと、子ぐまはとても嬉しそうに、にっこりと笑いました。それから、名残惜しそうに言いました。
「僕はそろそろ行かなくちゃなりません。人間さん、本当にありがとうございました」
「うん。星座仲間に、よろしく頼むよ」
 私がそう言って握手しようと、星を持っていないほうの左手を差し出すと、子ぐまはしっぽで応えました。それを握ったところで、私は驚きました。それというのも、子ぐまのしっぽが、ずいぶんと熱かったからです。
「君、前からこんなに熱かったのかい」
「無くした星を見つけて、僕の全身の星が、空に帰ろうとしてるんです。ほら、空で光っている星は、皆燃えているでしょう。さっきまでの僕の星は、みんな眠っていただけなのです」
 そう話しているうちに、子ぐまの体は、少しずつ地面から浮いてきてしまっていました。
 子ぐまも私も名残惜しく、手としっぽをつないでいましたが、それももう保てないくらいに、子ぐまは空へ帰って行きます。最後にしっぽが手を離れた時、私は言いました。
「子ぐまくん、私は君に会えてよかったよ」
「ええ、僕もです。またいつか会えたら……」
 そこから先は、もう聞こえませんでした。ただ、子ぐまが最後まで嬉しそうな顔をしていたのだけが、目にやきついていました。

 ふと気がつくと、私はもとの道に立っていました。子ぐまと出会った、あの田舎道です。
 ついさっき子ぐまが帰っていったのが、夢なのかどうか、私には分かりませんでした。ただ右手には、淡く青色に光る、小さな星が握られていました。
 私は家に帰ると、子ぐまからもらった星を、手のひらほどの小さな箱に入れて、それを大事に引き出しに仕舞いました。その後もそれを時々取り出しては眺めて、あの夜のことを思い出すのでした。何度覗いても、あの綺麗な星の色は、褪せることがありませんでした。
 そのまましばらくは覚えていたのですが、何年か経つと、星のことをすっかり忘れてしまいました。
 けれどもあるとき、ふっとあの夜のことを思い出して、また眺めてみようと考えつきました。けれども、子ぐまの星の入った箱は、いくら探しても、もう見つかりませんでした。
 私はその時、もしかすると、夜空がこいしくなった星が、子ぐまのもとへ帰ったのかもしれない、と思いました。けれども、あの不思議な星が本当にあったのかさえ、もう分からないのです。
 けれど私は、あの礼儀正しい子ぐまのことは、決して幻や思い違いだとは思えないのでした。
 今でも晴れた夜には、小さく真っ白なポラリス星が、堂々と北に輝いているのが見えるのです。

おしまい

8264文字/2019年1月28日

海底くらし

 海の底には、水晶でできたクジラがいるという。
 それは或る学者によれば、カリ長石や黒雲母などの結晶が集まった岩をたねにして、何百年、何千年もの時間をかけて、石英の結晶がクジラの形に大きく成長しているという話である。
 何千メートルというほど地下深く、岩の中でうまれたそのクジラは、マグマの熱で海底まで押し上げられ、やっと地中から出ることができる。クジラは、太陽の光が僅かさえも届かないような深さの海で、自ら泳ぎ、光るクラゲを食べる。これはクジラ自身が光るための養分とするためだという。
 クラゲを食べれば食べるほど、クジラの体は強く光を放つ。そうすると他のクラゲ達も、クジラの光に寄ってくる性質があるので――きっと自分らの光と似ているからだろう――クジラは、寄ってきたそれらを食べるのである。するとクジラの光はまたいっそう明るくなる。その繰り返しである。
 クジラはそうして輝きを増していくが、体の大きさは生まれてから変わることがない。彼らは生きている間じゅう(果して生きていると言えるのか、たいへん謎ではあるが)ひたすらにクラゲの光を取り込み、より明るく輝き、そうして終いには自らがその明るさに目を眩ませ、粉々に砕けてしまうという。
 岩から生まれ、岩へ帰るのである。
 クジラの光は、死んでなおしばらくの間保たれる。海底に住む人魚はこれをセキエイクジラと呼び、時にはその死体を利用していた。
      ――とある地質学者の手記より


 昔から、この海には人魚が棲んでおりました。
 その顔や姿は人間によく似ておりますが、腰から下はうろこに覆われた魚の尾。彼らは、人間の間では古くから、輝くばかりの美しさをもつ生き物だとされておりました。
 人魚と一口に言っても、その中には様々な外見があるもので、いくらかは見た目によって、その住む場所を見分けることができました。珊瑚礁の人魚は白い肌に銀の髪、尾にはエメラルドブルーのうろこ、また浅海の人魚は黄色の肌に金の髪、プルシャンブルーのうろこといったふうにです。なかでも深海の人魚は、珊瑚礁や浅海に住む人魚とは、ずいぶん違った見た目をしておりました。彼女らは大抵、くすんだ緑の髪に灰色の肌をもち、その尾には、黒曜石のように真っ黒なうろこがきらめいているのでございました。
 まれに浅海のほうへのぼって来る深海の人魚を、浅い海の人魚たちは度々嘲り、くすくすと笑いました。人魚らはみなその外見などの美しさについて、各々一家言あるのが常でございましたが、特に深海の外では、声の美しく、うろこのより青いものが美人であるとされていたからでございます。けれども深海の人魚たちは、そんなことを気に留めることはしませんでした。彼らは自分らの黒曜石のごときうろこを誇り、その艶やかさのみを美しさの物差しとしていたからです。

 ある日のことでございます。ひとりの人魚が海の底を泳いでおりました。彼女は、人魚の街から自分の家へ帰る途中でありました。
 彼女は名前をグラナといいました。彼女は、深海の人魚のなかでもひときわ美しい黒々としたうろこをもち、また他の誰よりも長生きでございました。
 深海の人魚の寿命は、浅海のものより個体差の大きいのが特徴的でありましたが、それでもたいていは他の海に棲む者たちの倍近く――おおよそ、百五十年ほど生きるのが常並みでありました。けれどもグラナは、特別老いた見た目でないにも拘らず、その歳は四百を超えました。それである者は、彼女のことを変わった者として、人間の言葉を借りて魔女と呼ぶこともありました。
 彼女は厚手のマントに体を包み、腰には大きな鞄をさげ、片手にはランタンを持っていました。
 彼女の持つランタンには、水晶のかけらがひとつ入っておりました。セキエイクジラの死体からとれる、光を放つ不思議な水晶です。グラナは、寿命で死んで落ちてくるクジラの死体から、そういった水晶の欠片を採取して他の人魚へ売る、クジラ採りといわれる仕事をしておりました。
 そこは空からほとんど光の届かない海底でしたから、人魚たちはたいてい、たまに落ちてくる水晶クジラの欠片や、もしくは光る魚やクラゲを捕まえて、明かりにしているのでした。もっとも、魚たちの光の届く範囲など知れておりましたから、やはりクジラの欠片は大事な明かりのもとであったのです。
 勿論、かつては人魚らも魚たちと同じように真っ暗闇の中で暮らしておりましたが、浅い海へ行けるようになった人魚たちの目は明るい所へ慣れるため、昔と比べるとやはりいくばくか、暗闇に弱くなってしまったのでした。
「なあ、どうも今年はクジラが少ないな。いつもは一年に四、五は見るのに、今年は冬になっても小さいのを一匹しか見ていないよ。地中で、何かおかしなことがあったのかね」
 グラナは、丁度隣を泳いでいたエソ――エソというのは魚の一種です。深海の生物は、クジラ採りにとっては仕事を手伝ってくれる仲間のようなものでした――に、そう語りかけました。
 エソはひとつ首を傾げて、辺りを見回しました。辺りはグラナのランタンで淡く照らされておりましたが、ずうっと向こうのほうは光が届かず真っ暗でした。けれども深海の魚は、暗い場所でも目がよくきくのです。とはいえ、その時エソに見えた景色は、辺りに生き物の気配などない、一面に広がる砂丘だけでしたけれど。
 エソはまた首をひねって、答えました。
「きっとそうでしょう。一昨年あたりから、死体どころか生きているのさえ、あまり多く見ませんものね。クジラが生まれにくくなっているのか、それとも別の場所へ移動しているのかもしれませんね」
「セキエイクジラが、別の場所へ?」
 グラナは眉をひそめ、ふと立ち止まりました。彼女の尾びれが静かに砂を巻きあげると、そこの砂の中へ隠れていたエイは驚いた様子で、あたりの砂を大きくまきおこし、それから何も言わず暗闇へ去ってゆきました。
「三百年近くクジラを見ているが、過去にだってそんな話は聞いたことがない」
 エソはそう呟くグラナに構うことなく、すいと泳いで行き、やがて暗闇の中へ姿を消しました。
 グラナはひとつため息を吐きました。商人として、売り物が採れないのでは仕事にならない、というのは勿論のことでしたが、クジラに関わる者として、この異変はやはり気にかかるものがありました。
 けれども原因が思い当たらぬことには、何をすべきかも分かりません。しばし考えたことろで、グラナはひとつあてを思いつき、北へ行くことにしました。
 彼女はいったん街のはずれにある家へ帰り、出かける準備をしました。腰にさげるかばんの中には、書くものと、先の平たいたがね、小さなハンマー、丈夫で大きな袋、袋より薄い布でできたマスクなどを入れました。いずれもクジラ採りに使う、グラナの使い慣れた道具たちでした。それから、ランタンの中の水晶を新しいものに取り替え、ウミナシの実を二、三個、マントの内側のポケットに入れておきました。
 次の朝、グラナは出発しました。向かうのは街がある方角とは反対側で、緩やかな谷と丘がつづいておりました。グラナはその砂丘の上を、北へ向かってまっすぐ泳ぎます。彼女は途中で出会ったサメやエソなどと、とりとめのない話をしては別れたり、途中立ち止まって、腹ごしらえにウミナシを食べたりもしました。
 そのような道中、グラナは真っ白な棘をもったウニと、大きなタカアシガニに出会いました。グラナが声をかけると、ウニが口を開きました。
「こんな所へ人魚が来たと思えば、クジラ採りさんか」
「ああ。近ごろクジラが少なくて参っているんだ。どこかで見はしなかったかい」
 グラナがそう尋ねると、二匹は少しの間考えました。
「そういえばこの間、火山の向こうのほうで、大きいのが泳いでるのを見たぜ」
 そう言ったのは、タカアシガニのほうでした。ウニも頷きました。
「ああそうだ。あれは、ずいぶんと明るいと言っていたな。周りにやたらとクラゲが集まっていたとか」
「火山の向こうというと、北のほうかい。丁度よかった」
 グラナは頷いて言いました。このまま北のほうへ向かえば、そのクジラを見ることができるかもしれません。もう少し詳しい話が聞ければよいのですが、彼らはもうクジラの話に飽きてしまっていて、この辺りでは珍しいらしい、ウミヘビの話にふけっておりました。それでグラナは二匹に軽く礼を言い、また進み始めることにいたしました。
 さて、そのまま北に向かってまっすぐ進み、広い丘をふたつ越えたところに、ぽつんと家が建っておりました。その家は、街によくある貝や珊瑚をつなぎ合わせたものではなく、礫を固めてレンガのようにした、四角く丈夫な、それでいてこぢんまりとした造りをしておりました。
 グラナは家の前に立つと、戸に取り付けられたサメの歯の飾りを、二、三回叩いて鳴らしました。しばらくして、ゆっくりと扉の向こうから出てきたのは、男の人魚でございました。
 灰色の肌と黒いうろこは他の人魚と同じ様でしたが、彼の緑色の髪は他の誰より明るく澄んだ色で、片手に持ったランタンの光を集めて、ぼんやりと光っているようにも見えました。
「やあ、誰かと思えばグラナかい」
 その人魚は名前をペリドットといい、長い間セキエイクジラのことを研究している、深海では数少ない学者でした。もう三百歳になるという彼は、グラナの親しい友人でありました。彼は彼女を家の中に招き入れました。
「今年のクジラが少ないことは気づいているだろう。何か原因は分かっているのかい」
 グラナがそう聞くと、ペリドットは頭を掻いて答えました。
「確かに少なくなっているのは事実なんだが、原因を探ろうにも、資料が少なくてね。水や地中の温度の変動なんかは調べているんだが、細かいことは何も分からない。強いていえば、火山の活動が活発化していることくらいだが、まあ、直接的な要因とは言い切れない」
 グラナはそれを聞いて、残念そうにため息をつきました。その時ふと、ペリドットが人差し指を立てて、こう言いました。
「ああ、そうだ。一昨々日、西の丘へクジラが降ったそうだが、聞いたかい」
 グラナが飛びつき、それを先に言わないか、と言い立てて詳しいことを尋ねますと、ペリドットは申し訳なさそうに笑い、こう言いました。
「僕も昨日エイに聞いたきりだから、詳しい状態なんかはまだ知らない。だから砂煙が落ちつく頃に行こうかと考えていたんだよ」
「それならもしや、今から出るところだったかい。すまないね。すぐに出ようか」
 グラナがそう言うと、ペリドットは少し考えてから
「それでもいいが、グラナ、ここへ来るまでだいぶ泳いだろう。見に行くのは明日にしよう、今日は泊まっていくといい」
 と言いました。グラナはそれにしたがうことにしました。もしかしたらそのクジラは、タカアシガニらの言っていた大きなもののことかもしれません。グラナは期待を募らせ、眠りにつきました。
 次の日、グラナとペリドットは早くから準備を始め、家を出ました。
 彼らはペリドットの家からまっすぐ、西北西へ十何キロか進んだ所へある丘へ向かいました。そこは丘というよりも高台と呼ぶにふさわしいもので、斜面は陸の高台に比べるとやはりゆるやかでございましたが、その高さと、頂上の広さは、ともに千メートルほどありました。
 上へと泳いで、丘の頂上へ着くと、向こうのほうの地面に、ぼんやり光る大きなものがありましたので、くだんのクジラの死体はすぐに見つけることができました。
 近づいてみるとそのクジラは、どちらかといえば小さな個体のようでした。頭のほうは地面に埋もれかけて、胴体の中央は粉々になって、全体に辺りの白い砂がうすくかぶっておりました。
 死んで海底へ沈んだセキエイクジラの体には、光に集まる習性をもつ生き物が群がります。それは例えば、クラゲやエビ、また他の多くのプランクトンや微生物などです。それらはたいてい、浅い海にいるものとは姿がずいぶん異なり、光の少ない海底の中でも、特別珍しいものばかりでした。彼女らが目にしたそのクジラには、十数匹のクラゲと小さなエビが数匹、辺りに集まっておりましたが、それは決して多いとはいえませんでした。
 二人はしばらくクジラを見つつ、それぞれ何かを紙に書き記しておりましたが、やがてグラナは、ペンを持つ手を止めて、クジラにかかった砂を手で軽く払いはじめました。
「やはり、ずいぶん暗いな。明かりには使えない」
 グラナのいう通り、そのクジラにはほとんど光がありませんでした。ウニやタカアシガニが言っていたものとは、違う個体でありそうでした。大きかったというあの個体は、もう他の場所へ移動してしまったのでしょう。グラナはため息を吐きました。
 足元に散らばって落ちている、うすくぼんやりと光っている水晶の欠片にも、辺りの白い砂がかぶっていました。地面に落ちたときに巻きあがった砂が積もったのでしょう。
 ペリドットは何かをぶつぶつと呟きながら、クジラを観察しています。
「私のほうでは、まともな商品にはなりそうにない。学者先生には、何か収穫になったかね」
 グラナはそう訊ねましたが、ペリドットはその言葉に答えず、やはり何かぶつぶつと呟きながら、クジラを眺めては砂をどかし、砂をどかしてはクジラを眺め、また何かを書き記していました。
 その時ペリドットがううん、と唸るのを聞き、グラナはすいと近寄りました。それから彼がいる辺りの場所をよく見て、首を傾げます。それは地面から掘り出された上顎のあたりでしたが、特にどうといったこともないのです。ヒビのない、きれいなままの上顎でした。ペリドットは言いました。
「割れ方がおかしいだろ。尾のほうは内側のたねまでぼろぼろだし、比べて頭や顎はすっかり綺麗なままだ」
 言われてみれば確かにそうだ、とグラナは思いました。
 セキエイクジラの体は鉱物ですから、他の生きものに襲われるということは、滅多にありません。稀に水面近くにのぼっていったものが人間の船にぶつかって、頭や胴体だけが大きく割れることもありましたが、それならば海底に着くまでにばらばらになって、全身がひとまとまりに落ちたりはしないはずでした。それに、これほど明かりの弱いうちに自ら死んでしまうことなど、これまでにありませんでしたし、たいてい割れるのは外側の水晶だけで、内側のたねまで粉々になることも珍しいのです。グラナはその原因を色々に考えようとしてみましたが、前例のないことが多く、すぐに行き詰まってしまい、うまい考えはひとつも浮かびませんでした。
 それでもペリドットのほうはしばらくクジラから離れる様子がありませんでしたので、グラナは何か他に手がかりがないか、辺り一帯をぐるぐるとうろつきはじめました。クジラが落ちてきたのを見た生きものが近くにいれば、話を聞けるかもしれません。
 そう考えてグラナはふと、泳ぐ尾を止めました。足元に何か、弱いクジラの光を反射している、小さな欠片が落ちているのが見えたのです。そっと拾ってみると、透明の細長い円錐形のガラスのようで、質感などはクジラの破片によく似ておりました。けれど、それ自体はクジラのようには光らずに、内側がくり抜かれたように空洞になっているのでした。
 また辺りの地面をよく見てみると、同じような欠片が他にも四つほど落ちていました。グラナはそれを失くさないように拾い集め、ようやく観察を終えたらしいペリドットのもとへ持っていきました。
「なるほど、水晶と違って光らないし、形も人工物のようだ。少し調べたいから、二つほど預かってもいいかい」
 ペリドットがそう言うので、グラナは五つのうち二つを、彼に預けました。それからペリドットの了承を得たのち、グラナはクジラの欠片の一部を袋に詰め、残ったクジラにひとつお辞儀をし、丘を発ちました。
 次の日、グラナは街へ行きました。深海の人魚の街は、ペリドットの家からは随分遠いところにありましたので、半日ほどかかってようやく着きました。街には、貝や珊瑚をつないで作った新しい建物と、礫造りの古い建物が集まって、何もない砂丘よりずっと賑やかでした。
 昨日採れたクジラの欠片は、明かりにこそ使えませんでしたが、加工すれば十分装飾品として使えそうなものばかりです。それで彼女は、街に住む、馴染みの加工屋のところへ向かっておりました。
 グラナは目当ての店を見つけると、そのドアをノックし、大きな声で言いました。
「おうい、ガブロはいるかい。グラナだ」
 奥から出てきたのはガブロと呼ばれた男性その人でございました。彼は真っ黒なうろこの所々に白い斑があり、また濃い灰色の顔には、しわが深く刻まれているのが目を引きました。グラナは水晶の入った袋を彼に渡し、
「これならいくらで売れるかい」
 と尋ねました。ガブロはグラナをドアの中に入れ、袋の中身を机の上にあけると、ルーペなどを取り出して、欠片を一つ一つ確認し始めました。
「ずいぶんと暗いね。確かに明かりには向かなさそうだが、髪飾りなんかにすれば、若い娘たちに人気は出そうだ」
「それはよかった。しかしどうもね、今年に入ったあたりから、明かりになりそうなクジラが全くと言っていいほど採れないのさ。砂丘のエソは、別の場所へ行ったんじゃないかだなんて言っていた。学者先生にも原因は分からんようだ」
 グラナの文句を聞き、ガブロは顔を上げて言いました。
「そんなに採れないなんて、今年は大変だろうなあ。また採れるようになるのを待って、別のものを売ったりはしないのかい」
「そういうわけにはいかないさ。私はこれまでセキエイクジラに頼って生きてきたのだから、これ以外の仕事はきっとできない。私にとっては、そういうものさ」
 ガブロはそういうものか、というふうにため息を吐きました。
 そうしてガブロの品定めが終わり、グラナが代金を受け取ったところで、ドアを叩く音が聞こえました。ガブロは一瞬ドアの方を振り返り、
「ちょっとすまない」
と言い、玄関の方へ出て行きました。グラナは荷をまとめつつ待っていると、ガブロが戻ってきて、こう言いました。
「おうい、グラナ。五日前、クジラが死んだところを見たって子が来ているぞ」
「本当かい」
 グラナが驚いて表に出ると、そこには仕立て屋で見覚えのある、おとなしい少女が立っておりました。少女はうつむきながら、小さい声でこう言いました。
「あのう、私が見たの、丘のてっぺんに落ちた、小さいやつなんです。おかあさんが、クジラ採りさんにぜひお話ししなさいって。でも、あのクジラ、ほんとうに暗かったので、クジラ採りさんのお役に立つかどうか……」
「仕立て屋のとこの子だろう。あのクジラのこと、気になっていたんだ。よかったら話を聞かせてくれないか」
 グラナが愛想よくそう言いますと、少女はぱっと安心した表情になりました。ガブロは二人を中に入れ、少女はクジラを見たときのことについて、まだ少し緊張した様子で話し始めました。
「おかあさんと、西の街まで荷を届けに行ってた帰りだったんです。丘を越えようとしたとき、少し上の方にクジラがいるのに気がついたんです。なんだかあんまり綺麗な泳ぎ方じゃなくて、少し尾びれの動きがおかしくて……。それでしばらく見ていたら、泳ぎながら落ちてきて、あわてて離れました。そうしたらクジラが丘の上に、頭から地面につっこむみたいになって、その、何メートルも横滑りになっていったんです。あんまり砂煙がすごかったから、それから後はよく見えなかったんですけれど……」
 グラナは腕を組み、話を聞いておりましたが、どうにも引っかかるところの多い話でした。
「どうもありがとう、とてもいい参考になったよ」
 グラナは少女にそう言うと、少女はほっと息を吐いて、よかった、と言いました。
 グラナは少女を見送った後、ガブロにこう言いました。
「なあガブロ、後でさっきの水晶で、ひとつあの子に何か作ってやってくれ。勿論、そのぶん金は渡すからさ」
 ガブロはグラナと目を合わせ、勿論だとふっと笑いました。
 そうして、グラナは町を後にしました。グラナは帰る途中、あの少女の言っていたことについて、えんえんと考えこんでおりました。
(妙な所の多い死体、死ぬ前の変な泳ぎ方。進みながら地面に突っ込んだということは、落ちた時には、まだ生きていた可能性があるが、果してあり得るか……)
 彼女の疑問は、家に着いて寝る時になっても、消えることはありませんでした。

 それから二日ほど経った日のことでした。ペリドットがグラナの家を訪ねてきたのです。珍しいことに驚いていると、ペリドットはこう言いました。
「つい昨晩、セキエイクジラを見たというサメに会ってね。呼んだ方がいいかと思って寄ったんだが、今すぐ来られるかい?」
 グラナは驚いたまま慌てて頷き、急いで出かける準備を済ませました。それからペリドットのほうへ出て行くと、彼はふと、思い出したように言いました。
「ああそうだ。あの欠片だが、モアサナイトというものの結晶のようだ。近頃人間が作り出したもののようだから、きっとその破片か何かだろうね。めったに見ない代物だが、そこまで純粋でもないものだ」
 ペリドットはそう言いますと、余った欠片を一つ、グラナに返しました。グラナは、それが人工物だというのに少し違和感を覚えながらも、その欠片をマントのポケットへ仕舞いました。
 彼らは西へまっすぐ進み、以前クジラの落ちていた丘を越えて、ずっと進み続けました。細長い山脈をようやっと越え、尾の疲れはじめた辺りで、グラナはペリドットに、いい加減どこまで進むのかを聞こうとした、その時でありました。
 ペリドットが、ぱっと真上を指さし、グラナの視線はそちらに向かいました。
「セキエイクジラだ」
 それは、これまでに見たことのあるセキエイクジラとは比べ物にならないほど大きく見え――それでいてその光も、どのクジラよりずっとずっと強く明るく、彼女らのいる山の斜面を照らしているのでした。彼女らは呆然として、ただただクジラを見上げておりました。
 そのときです。ぱっと、閃光が辺りを照らしました。
 それとほぼ同時に、ぱん、と鋭い音が辺り一帯に響きわたります。その音は辺りの水を細かく震わせ、まるでうろこが裂けるようなするどい響きでした。
 彼らはその音が、クジラが割れる前兆であることを知っていました。グラナは閃光のおかげでまだ目がちかちかしていましたが、クジラにおかしな様子がないか見落とすまいと、じっと上を見つめておりました。
 ガラスの割れるような、鋭い音が何度か続きます。やがてクジラはゆっくりとひれの動きを止め、頭を下にしてぐらり、と傾きました。
 クジラはその重みのまま、ゆっくりと、ずうっと真下へ沈んでゆきます。それからずうん、と低く響く音をたてて、割れたクジラは谷の傾斜を、砂を巻き上げながら、ゆっくりと滑り落ちてゆきました。
 クジラの落ちていったその先にある谷は、とても深いものでした。それでグラナ達は砂を吸い込まないようマスクを着け、急ぎ谷の底へ降りてゆきました。
 谷の底は一面が、クジラの光に照らされた砂煙で、何も見えない状態でした。グラナはペリドットに言いました。
「一刻も早くあれの様子を見たいところだが、この砂では明日にならないと、まともに見られなさそうだ」
 ペリドットは頷き、彼らは斜面を登った所にある平地に、簡単なテントを立て、そこで眠りにつきました。
 次の日起きてみると、砂煙はだいぶ落ち着いておりましたが、視界が良好と言えるほどではございませんでした。それでもグラナとペリドットは、砂煙が落ち着くのを待ちきれず、テントを片付け準備をし、谷の底へ降りてゆきました。
 そのクジラは改めてみても、やはりこれまでに見たことのあるセキエイクジラのなかでもひときわ大きく、まぶしいほど明るいものでございました。とりわけ体長は、ゆうに三十メートルはありそうなものでした。
 以前見たクジラとは異なり、ひびは全身に入っておりましたが、顎から前半身にかけてが、特に大きく崩れているようでした。大きく砕けた部分はやはり、内側の岩まで脆く、崩れやすくなっているようです。
 そうしてグラナとペリドットが、またそれぞれクジラを観察し、色々と書き取っていた時でした。
「ああ、学者さんにクジラ採りさん。あそこに、おかしなウミヘビがいるのです」
 反対側から歩いてきた大きなエビがそう言って、彼らのほうへと駆け寄りました。クジラの死体にはあまりいない種類のこのエビは、おそらく明かりに誘い寄せられたのではなく、元からこの辺りに住んでいたのでしょう。
 二人は急いで、エビの案内した、クジラの胴体の反対側、そのちょうど真ん中辺りに近寄ってみました。その中には、光って見えるウミヘビが一匹、割れたクジラの断面から顔を出しておりました。
 そのウミヘビは、大きさなどはむしろウツボというにふさわしいようなもので、その細く大きく裂けた口は、胴体の太さの倍ほどありました。黒と白がまだら模様のようになった細長い胴体は、するするとクジラの死体から泳ぎだし、やがて一メートル弱ほどのすがたをあらわしました。グラナははじめ、ウミヘビが光って見えたのはクジラの光を反射しているからだと考えておりました。けれどもそうして見ると、見間違いなどではなく、その体の白い部分は自ら光っているようなのでした。
 グラナとペリドットは、その見慣れないウミヘビに驚き、しばらく呆気にとられておりましたが、ウミヘビがまたクジラの断面から岩の中へ潜っていくのを見て、はっと我に返りました。
 二人があわてて岩を覗き込むと、ウミヘビは、岩をまるで柔らかい木の実のように、その鋭い歯で噛み砕いて穴をあけて潜ってゆくところでした。
「セキエイクジラを食べるウミヘビなんて、これまでに聞いたことがあるかい」
 グラナはようやっとそれだけ言うと、ペリドットは首を振り、言いました。
「それに外側の水晶でなく、そのたねの岩の方を食べるなんて」
 二人は顔を見合わせ、どうすべきか、少しの間話し合いました。
 グラナは水晶の割れ目から覗いた、比較的大きなままの岩の塊にそっとたがねをあてて、その上からハンマーを打ち下ろします。
 岩は音をたて、真ん中に大きなヒビが入りました。そこをこじ開け、覗きこんだグラナとペリドットは、同時にあっと声をあげました。そこには、さっきのウミヘビと同じ生き物が、三匹ほど顔を出していたからです。ウミヘビは岩から顔を出すと、先ほどと同じように、すいと泳ぎ出しました。
 ペリドットは急いで、丁度先ほど捕まえたフクロウナギに、ウミヘビをどうにか二匹捕らえさせました。残った一匹は、また岩の中に潜るかと思いきや、地面の中に逃げ込んでしまいました。
 グラナはウミヘビが逃げないよう、一匹ずつその首に紐を結びながら、その細長い体をじっと眺めました。ウミヘビはどうやら、魚などよりもセキエイクジラに似て、その体は方珪石と黒曜石からなっているようでした。グラナはウミヘビの顔を見て、何か引っかかるものを覚えました。
 少しの間考えて、それからはっとしました。彼女はウミヘビの口をたがねで開き、そのまま固定しました。それからマントの中からあの三角形の欠片を取り出し、見比べてみると、明らかにあのグラナイトの欠片は、人工物などではなく、ウミヘビの歯そのものでございました。ペリドットもグラナの手元を覗き込み、あっと声をあげます。
 グラナは興奮して言いました。
「やはりそうだ。クジラの周りに散らばっていたのが、このウミヘビの歯だったんだ。それでクジラの内側の岩だけをウミヘビが食べるから――あのクジラはあんな死に方をしていたのだ」
 ペリドットも納得したように頷き、記録を取る少しの間黙ってから、しみじみとこう言いました。
「けれど、きっとこのクジラはまっとうに、寿命を迎えたんだろうね」
「ああ。こんなに明るいからだで、あんなに綺麗な音をたてて事切れたんだ。こいつは立派なクジラだよ」
 グラナはウミヘビに紐を結び終わると、荷をまとめはじめました。
「結局クジラの少ない理由は、分からず仕舞いか」
 グラナはマスクを外しつつ、そう呟きます。気がつけば辺りの砂煙は、すっかり落ち着いておりました。それを聞いたペリドットは、観察のメモをとる手を止めて言いました。
「ああ。だが、ウミヘビを見つけられただけでも大きな手がかりだ。クジラと似た鉱物の生き物ってことは、クジラが減った原因ともきっと関係があるだろう」
 それを聞くとグラナは感心して、「いかにもだ」と笑って言いました。
「学者さんの調査が終わり次第、あたしは作業を始めることとしよう。手伝いが要れば呼んでおくれよ」
「ああ。助かるよ」
 ペリドットはにこりと笑って、そう答えました。その時です。
「雪だ」
 グラナが、ぽつりと呟きました。ペリドットはその声に、ぱっと上を見上げます。
 暗いくらい海の底で、光るクジラのもとに静かに降り始めた、その白く小さな欠片たちは、やがて視界いちめんを白く埋め尽くしてしまうほどに、しんしんと舞い落ちておりました。
 深いふかい海の底に、ひとつの音もなく、真っ白な雪が降り続いています。
 その美しさに、彼らはもう一言も話さずに、雪の中にただ立ち尽くしておりました。

お終い

12278文字/2018年9月5日