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2026年3月3日
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2026年3月3日(火)
〔4日前〕
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すき!
#銀嶺の獣
ゼルデデと人間の話
※野生動物の狩猟、キャラクターの流血表現を含みます
掌編(11882文字)
オオカミが怪物と出会った、初めての冬が終わろうとしていた。
そのとき怪物は川まで水を汲みに外へ出て、オオカミもその後について歩いていた。
太陽は白く濁った雲に覆われて見えなかったが、おそらく空の天辺を少し過ぎた頃だろう。昨日の午後から雪は降ったり止んだりを繰り返していた。
辺りの景色はまだ分厚い雪に覆われていたが、麓のほうを見れば、以前より少し雪の白が減っているように見えた。怪物の家からは、その雪解けの境目が日に日に山腹を登ってくるのがよく見えた。
背の高い怪物は、その枝角がぶつからないように器用に木々の間を抜け、斜面をずんずん歩いていく。オオカミははぐれないようにその背中をせわしく追った。白い雪に、蹄と肉球の足跡が残される。
やがていつもの水汲み場に近いところまで来ると、怪物は口を開いた。
「おい」
その無愛想で短い呼び掛けに、オオカミはバウッと鳴いて応える。
「昨日かけた罠の様子を見てきてくれ」
オオカミはまた短く一度吠えて、言われた通りに、仕掛け罠があるほうへ駆けていった。
彼は未だ怪物と会話をすることは叶わなかったが、怪物の方はオオカミが自身の言葉を解しているようだということが、多少なりとも分かってきていたようだった。それでここ何日かかけて、オオカミはようやく簡単な意思を伝えることができるようになっていたのだ。イエスなら短い吠えを一度、ノーなら短くうなる、といった具合である。
オオカミはもっと自分の考えをはっきりと伝えたいと思っていたが、怪物のほうがいつも必要最低限のことしか喋らないので、これ以上の会話は不可能だったのだ。
(もっと色んなことを話したいのに。あいつの正体だって、名前だって、何にも知らないんだから!)
そう考えながら、彼は木々と雪の間をすり抜けて進んでいった。昨日の記憶と匂いの痕跡を頼りにしながら、いくつかの地点を確認して回る。
昨日怪物が仕掛けたくくり罠には、ほとんど何もかかっていなかった。そのうちの一つにはイノシシの足跡が残されていたが、罠に気づいていたのか、辺りを警戒して避けていった様子が見てとれた。
(ここもだめ……ここもか。残るはあと一つだ)
獲物がいないことが分かると、すぐにその場から離れる。オオカミは最後の罠を確認しに向かった。
目的の地点に近付くと、雪で縁取られた黒い木々の向こうに、何かが動いているのが見えた。それが動くたび、辺りの白い雪がぱっ、ぱっと飛び散る。
それを見て、オオカミは反射的に藪に身を隠した。瞳孔を開き、息をひそめる。
(ウサギだ)
白い塊が、後ろ足を地面の罠にとられて暴れていた。掴まってからあまり時間は経っていなさそうだ。
ひとつ、ふたつ、と呼吸を数えながら、意識を研ぎ澄ませる。
(――今だ!)
オオカミは木の影から勢いよく飛びかかった。
相手に向かったその大きな牙は、小動物の首元をまっすぐ捉えた。彼は暴れる体を前足でしっかりと押さえこみ、ウサギの細い首筋に牙をぐぐっと押し込んだ。
温かい血が白い毛皮を伝い、雪を赤く染める。
ウサギはしばらくの間激しくもがいていたが、やがてじっと動かなくなった。四肢の力が抜けて、だらりと雪の上へ垂れる。それを確認してようやく、オオカミは獲物から口を離した。
(やったぞ。あいつに教えなきゃ)
群れにいた頃はいつも白い目を向けられていた狩りの腕前だが、今のような生活なら役に立てられる。そのことはオオカミに自信を与えていた。
オオカミが遠吠えしようとしたその瞬間、ピィーッと高い音が空につんざいた。鳥の声にも似た音だが、今の季節のこの山に、あんな鳴き方をする鳥はいない。オオカミには、その音の正体がすぐに分かった。
(あいつの笛の音だ)
それは少し前、怪物がオオカミの目の前で吹いて見せたものである。確かあの時は
「これを鳴らしたら、おれのもとへ来い。……お前がどれほど理解してるのかは、分からんが」
と、そう言われたのだった。
勿論このオオカミはその時言われたことを理解し、そしてしっかりと覚えていたのだが、今ここを離れるわけにはいかなかった。彼の前足では獲物のウサギを罠から取り外すことができなかったし、かといって新鮮な肉を置いていくのも惜しかったのである。
そこでオオカミは何度か空に向かって吠えた。声は白い空にしんと響く。
少しもしないうちに、怪物は斜面をずんずん登ってやって来た。少し早い足どりは、一切の迷いなくオオカミのもとへたどり着いた様子を示していた。
怪物はオオカミと、その足元で息絶えたウサギを順番にちらりと見て
「捕れたか」
と呟いた。オオカミが軽く吠えて答える間もなく、慣れた手付きでウサギを罠から外す。獲物の脚をロープで手際よくまとめ、自分の腰紐にさっさと結びつけながら、怪物は言った。
「これだけか?」
オオカミはその通りだと言うように吠えて答えた。怪物は僅かに頷くとさっと立ち上がり、休む間もなく足早に歩き出した。
それは家とは逆の方向だった。よく見れば腰に下げられた水汲み樽も空である。怪物はオオカミが着いてくるのを横目でちらりと確認すると、またぼそりと言った。
「用事ができた。……少し急ぐ」
怪物は、それ以上は何も言わなかった。オオカミは黙って着いていきながら、こう考えた。
(普段より少し、落ち着きがないみたいだ)
それは、獲物を扱う時の怪物の視線の動きや手付き、それに今の歩き方なんかから、なんとなく感じられるのだった。普段と比べるとほんの僅かな違いだが、オオカミが知るこの数ヵ月間では初めての様子だった。
怪物はほとんど立ち止まることなく歩いていった。
この辺りは倒木や低木が雪に隠れて歩きづらいにも関わらず、一切の迷いのない進み方だった。まるで、どこを踏めばいいのか全て分かりきっているかのようだ。オオカミは怪物が作った雪道をなぞるように、足跡を重ねながら歩いていく。普段より悪い足場を構わず進んでいくところを見るに、本当に急いでいるようだった。
怪物の言う通り、その道のりは随分と長かった。
山脈の向きに沿うように、それでいて少しずつ標高が低い方へ進んでいく。普段の行動範囲を大きく外れていて、オオカミも初めて来るような場所だった。
怪物は時折立ち止まっては、トナカイのような耳を立ててじっと何かを聞きとり、また歩き出すのだった。
オオカミは、怪物のこの行動の不可解さはさておいて
(こいつの縄張りはずいぶん広いんだな)
と素直に感心するのだった。
日が傾き、木々の下に薄暗さが立ち込めはじめた時、怪物はふと歩みを遅めた。オオカミがちゃんと着いてきているのを見ると
「この辺りだ」
と小さく呟く。まるで独り言のような言葉だったが、それは状況が一切分かっていない自分のために言ってくれているのだろう、とオオカミは理解した。
怪物は辺りを見回し聞き耳を立てながら、上着の中からあの仮面を取り出した。黒っぽく硬い素材で出来ていて、目のところに細い隙間が開いている奇妙なものだ。
怪物はそれを顔に着けると、また辺りに注意を配りはじめる。
オオカミはこれまでの観察から、その仮面が何のためのものなのかを考えていた。
(あの顔のやつ、一体何なんだろうか。これまでは天気が良い日によく着けるから、眩しいのかと思ってたけど……今は夕方の曇りなのに、どうして着けるんだ?)
しかし、その推理と新たな疑問は、すぐに頭の隅に追いやられた。
目の前の怪物が、不自然にぴたりと立ち止まる。オオカミの視線はまず怪物に向かい、それからその視線の先にと移った。
そこにいたのは一匹の生物だった。
オオカミにとって初めて見るその生物は、なかなか奇妙なものだった。
二本足で立つ姿はすぐそこにいる怪物によく似ているが、より小さな背丈で、頭の角もない。脚もトナカイのようなものとは違って細くまっすぐ縦に伸びて、足先は分厚い布で覆われているようだった。腕には、先に布が巻かれた木の枝が握られている。
怪物と比べると、随分と小さく細く、弱々しく見える。
その姿を見たオオカミの脳裏に、ひとつの単語が浮かんだ。
(あれは、人間だ)
何気なくそう思ったことを飲み込みかけて、いや、と首を振る。自分自身に対するひとつの疑問が浮かんできたのだ。
(オレは人間を知っている……? 初めて見るのに、どうして……)
それが何故なのかという問いは、瞬間、耳につんざく叫び声で搔き消された。
「ひっ……こ、殺さないでくれ!」
人間はその叫びと同時に、手に持った棒を振り回しながら一歩後ずさった。懐を探るものの、ぶるぶると震える手では何を取り出すこともできない様子だった。目を見開き、歯をがちがちいわせている。
怪物はまったく対称的な落ち着き払った様子で、人間に語りかけた。
「殺す気はない。そこは足場が悪いから、こっちへ来い」
オオカミはその言葉で初めて、人間の背後からごうごうと滝のような音が響いているのに気がついた。おそらく崖の向こうが、急な川にでもなっているのだろう。人間が向こうへ逃げていこうとしないのも、それで合点がいった。
それでも人間は動こうとせず、怪物を追い払おうとするかのように、木の枝をむやみやたらに振り回した。
途端、人間の足が雪の下の岩でわずかに滑ったようだった。体勢がぐらつき、片方の足を踏ん張る。しかしそれが切っ掛けとなったのだろう。
人間の足元の岩が、がらがらと川の方へ崩れる音がした。
(大変だ、助けなきゃ!)
咄嗟にそう考え、オオカミの脚は駆け出した。一直線に向かえば間に合う――。
しかし、彼の牙は人間の服を掴むことができなかった。オオカミは川に落ちるすんでのところで踏みとどまり、頭上を見上げる。
さっきまで目の前にあったはずの人間の足が、今は頭上に見えたからだ。
オオカミが人間の服を咥えるよりずっと速く、怪物の手が、人間の首根っこを掴み上げていたのだ。
「……だから、足場が悪いと言ったのだ」
怪物はかすかな溜め息とともに、そう呟いた。
服の首元を掴まれ、細く頼りない足先はわずかに地面から浮いた。その人間が持っていた棒切れは、足下に広がる川に落ちていった。人間の口からは
「ひ……うっ……」
と、小さな音のような声が漏れるばかりだ。その視線は泳ぎ、手足は震えている。
怪物は人間が落ちないように――あるいは、崖下の川を覗き込もうとでもしたのだろうか――小さな身体を持ち上げたまま自身のほうへ引き寄せ、わずかに身を乗り出した。
その時、人間の上着の下に隠れた腰元から、銀色の鋭利な切っ先がちかっと光った。
――オオカミにとってさえも、一瞬の出来事だった。
それを払い落そうと飛び掛かる間もなく、ナイフは怪物の腹へ、真っ直ぐ突き立てられた。
怪物の体がわずかに震え、息が詰まる音が聞こえる。紺に染められた毛皮が、刃物の縁からじわりと黒く染まった。
しかし、それだけだった。怪物の仮面の下に覗く表情には、一切の動揺が見られない。人間を持ち上げたままの腕もびくともしなかった。息を止めた一瞬にちらりと自分の体を見ただけで、あとはただまっすぐ、人間を見据えていた。
やがてゆっくりと吐き出される息が、白く染まる。
人間はその様子に気が付くと、みるみる青ざめていった。
震えた小さな手が、刺さったままのナイフの柄からこぼれ落ちた。
腹に刺さった刃物をそのままに、怪物はゆっくりと二、三歩下がると、人間を地面に下ろした。腰が抜けた人間はそのままへたり込み、巨大な姿を見上げるばかりだ。
怪物はゆっくりと、言い聞かせるように言った。
「これは無駄なことだ。俺は、お前に危害を与えない。話を聞け」
それから小さく息を吸い、大きな手が細いナイフの柄を掴む。怪物がゆっくりと自らの腹から刃を引き抜くと、服に空いた穴から赤黒い液体がどくりと漏れだした。
静かに流れ出る血によって毛皮の染みはあっという間に広がり、服に施された模様をも次々と赤くしていた。
オオカミの鼻腔に、鉄っぽい匂いが充満してゆく。
(おい、かなり血が出てる! このままじゃ死んじまうぜ!)
彼はそれを伝えようと必死に何度も吠えたが、怪物はかすかに口元をしかめて
「うるさい。俺は人間は殺さんし、食いもせんぞ。お前にもやらん」
と言うばかりだった。
(ああ、もう! そんなことが言いたいんじゃないんだよ、オレはお前のほうを心配してるんだ!)
オオカミは歯がゆい思いでいっぱいだった。もし今怪物と同じ言葉を喋ることができたら、どんなにありがたいだろう! しかしそれは彼にとって、空から食事が降ってくるとか、急に狩りが上手くなるとか、そういった事と同じくらい望めないことだった。
彼はつい吠え続けながらも、焦る頭で考えた。今のオオカミには、ひとまず自分も人間の味方だということを示す必要があった。そこで、雪の上に尻餅をついたままの人間のもとへ歩み寄り、くうんと鳴いたり、そっと鼻先でつついたりするのだった。
怪物はそれを見て軽く鼻を鳴らし、人間に向き直って静かに言った。
「山道に迷ったのだろう。送ってやる」
人間は視線を泳がせたまま、何かよく分からないことをぶつぶつと繰り返している。ろれつも回っていないようで、オオカミにも何も聞き取れなかった。
怪物は少しの間それに耳を傾けていたが、やがて
「疲労で判断力が鈍っとる」
と呟いた。
彼は毛皮で雑に拭いたナイフを腰帯に留めると、人間を軽々と持ち上げて小脇に抱え込んだ。腕をしっかりと押さえ込むような姿勢にされ、呆然とした人間はされるがままだった。
怪物が立ち上がる瞬間、オオカミは自分の目と鼻を疑った。怪物の巨体が立ちくらみのようにほんのわずかにふらついた――にも関わらず、その腹の傷からは、もう古い血の匂いしかしなくなっていたからだ。服を伝う血液の流れも、もう止まっていた。
戸惑うオオカミに、怪物は低く声を掛ける。
「おい、寝る場所を探すぞ」
オオカミははっとして、ひとつ吠えた。
夜の闇はあっという間に迫ってくる。夜営するための場所を探し始めてすぐ、川の上流に窪んだ岩壁があったのは幸運だった。
冷たい空気をすべて防ぎきれるわけではないが、風が当たらない場所もある。怪物は一番奥に人間を下ろし、その手前で火を焚いた。辺りには岩も木の枝も沢山あったから、火床を作るのも簡単だった。
それから怪物は自分の上着を脱ぎ、人間に差し出した。
「さっきの血がついとるが、ないよりはましだろう」
断る気力もない人間は、黙って重たい上着を受け取る。手に取ってすぐにその匂いに顔をしかめたが、仕方ないと諦めた様子でのそのそと背中に被せた。
オオカミは上着に潜り込み、人間の背中に密着するように寝そべった。息を飲む音が背中越しに聞こえたが、怪物は作業の傍らでその様子を見やって言った。
「そのオオカミは大丈夫だ。……おおかた、そいつの親切心で体温を分けてやろうとでもしてるんだろう」
オオカミは顔を出し、機嫌良くひと鳴きした。
(その通りだよ! よく分かってるじゃないか)
怪物の言葉を信じきれない様子の人間は、まだオオカミのほうをちらちらと見ながら体をこわばらせていた。それでも焚き火で体が温まってくるにつれ、緊張はほどけていったようだった。体の震えもおさまっていた。
辺りが本格的に暗くなり、焚き火が投げる光だけが森の中に残り始めた。闇の中に雪がちらつき始める。聞こえるのは、少し遠くを流れる川のうなりと、枝が燃えるかすかな音、そして怪物の立てる物音だけだった。
怪物は昼間のウサギを雪の上で捌いてきたようだった。骨が付いたままの肉を弱火にかけ、その一方で雪を溶かして水を作る。火の隅の平らな石の上では内臓が焼かれている。その匂いにオオカミは涎が止まらなかった。
怪物の手際の良い行動のすべてを、人間はじっと黙って見つめていた。何を感じ、考えているのか、オオカミにはまるで分からなかった。
怪物は焚き火を挟んでどっしりと座り込むと、口を開いた。
「飯を食って寝れば、明日には回復してるだろう。……村へ送ってやる、どこの出だ」
「……ウザト」
人間の答えに、怪物は仮面の下で満足げに頷いた。
会話はそれきりで、再び静寂が訪れる。
やがてウサギに火が通ったのを見ると、怪物はぼそりと
「いいだろう」
と呟いた。懐から包みを取り出して、中の小さな硬いパンをいくつか人間に投げ渡し、こんがりと焼けたウサギの後ろ脚を一本差し出した。
「血抜きが足りんから臭いだろうが、死ぬようなもんじゃない。食え」
人間は受け取った肉と怪物を交互に見やると、ごくりと息をのんだ。おそるおそる口をつけた――と思うや否や、がつがつと夢中で食べ始めた。どれだけ飢えていたのかと驚くほどの食べっぷりに、横で同じものを食べているオオカミさえも目をみはる。
最初の肉もパンもあっという間になくなり、怪物は次の一切れを差し出した。人間はもう躊躇することなく、その恩恵に食らいついた。
一方で、怪物はほんの少しの肉と内臓に手を付けただけだった。いくらかをオオカミのために取り分けて冷まし、それ以外のほとんどを人間に食べさせた。
オオカミにとってはそれほど多い食事ではなかったが、内臓を半分分けてもらったことでとても満足していた。
(オレは生でもいけるんだけどな。でもまあ、焼いたのも案外悪くない)
オオカミが自分用の肉をぺろりと平らげて満足げに横たわるそばで、怪物は木彫りの小さなカップで沸いた湯を掬い、
「冷まして飲め」
とだけ言って人間に手渡した。
受け取る瞬間、人間はとても不思議そうな顔をして、怪物の顔をじっと見つめていた。堅牢な仮面の下は、瞳の色はおろか眉の動きすら読めない。それでも何かに気付いたらしい人間は、やがて一つの質問を投げかけた。
「……お前、ゼルデデか」
その言葉に、オオカミは耳をぴんと立てた。
怪物の表情は相変わらず読めないが、動揺する様子もなければ、否定の言葉も出なかった。普段と全く同じ様子で、静かに口を結んでいる。
(こいつ、ゼルデデって名前だったのか)
怪物は何も言おうとしなかったが、人間がいつまでも返事を待っているのを見て、やっと諦めたかのように言葉を漏らした。
「だったら、どうした」
いつも通りの低く擦れた声だ。だがオオカミには、その響きに疲労のような、少しの憂いが混じっているように感じられた。
人間は納得した様子で何度か静かに頷くと、また口を開いた。
「村のじいさんが、よく言っていたんだ。山奥にはゼルデデという巨人がいて、迷いこんだ人間を襲うんだと」
オオカミはちらりと怪物のほうに視線をやった。
(人間を襲うだって? 確かに見た目は怖いやつだが、そんなことないぜ)
そんな思考を知るよしもなく、人間は肩を軽くすくめて続けた。
「どうせ俺らを山奥に立ち入らせないためのお伽話かと思っていた。山の巨人だなんて、ありきたりな伝承だと。しかし、いざ山道を見失ってしまうと、本当に怖かったんだ。下山しようと歩き続けても村に戻れなくて、天気も悪くなりやがる。やっと見つけた川に沿っていくら進んだが、帰れる気配が一向に感じられないんだ」
先程までのことを思い出したのか、人間の声はか細くなり、その指先は震えていた。
「何度、もうだめだと思ったか知れない。でも、だ。まさかあのゼルデデが本当に居たなんて……しかも、こんなに親切にしてくれるなんて、思ってもみなかった」
ゼルデデはなおもじっと黙りこくり、人間が話したいようにさせていた。人間はにわかに仮面の顔を見据えて言った。
「皆、お前のことをほら話の怪物だと思っている! でも事実は違う。俺はこうしてお前の親切に命を助けられている。お前は本当は善人なんだろう? 俺は、村に帰ったら本当のことを話すよ。ゼルデデは本当に居るんだと、人間の味方なんだと、皆に伝えようと思うんだ」
長い髪の下で、怪物の耳がぴくりと動いた。
「お前の言い伝えは、他の村でも――」
人間が続けようとしたその言葉を遮って、ゼルデデは低く、しかしはっきりと言い放った。
「ありがたいとでも、言うと思ったか」
人間は戸惑い、言葉を失った。怪物の声色には、オオカミがまだ聞いたことがない怒りの様子が感じ取れた。
ゼルデデはまた黙ってしまった。少しの沈黙が流れ、焚き火の音が岩壁に響く。
やがて怪物は口から長いため息を吐き出したかと思うと、無愛想にこう言った。
「俺がいるからって、気軽に山へ入られるようになったら、手間が増えて迷惑な話だ。訂正する必要など、ない」
オオカミは黙って聞き耳を立てていたが、怪物の言い分には納得を覚えていた。
怪物が何故こんな場所に住んでいるのかは、未だ謎だった。それでも今日、こうしてわざわざ長い距離を歩いて、こいつは人間のもとへやって来たのだ。
このゼルデデという男は、きっと人間のことを嫌っているわけではないのだろう。むしろ自分の力をもってして助けたいとすら思っている。だからこそ、彼らがこの山に入ってみすみす危険を冒すようなことが、あってほしくはないのだ。
(どうして人間のこと好きなのに、人間と暮らさないのか……それは謎だけどさ)
でも、と人間は口を開いた。
「でも……でもお前は確かに俺の命の恩人だ。村に帰ったら礼をする……それに、さっき刺した詫びも、させてくれ」
たどたどしい言葉だが、その目はまっすぐに仮面の隙間を見つめていた。それでもゼルデデは首を横に振る。
「恩も礼もいらん。人間が俺の縄張りで死ぬのを、見たくないだけだ。腹の傷も、塞がった」
そう言いながら、脇腹のあたりを静かにさする。黒っぽく染まった毛皮は乾ききっていて、もうしばらく新しい血が出ていないことを教えていた。
ゼルデデは
「もう寝ろ。明日は早い」
としか言わず、人間も何も返さなかった。
やがて、完全な夜が訪れた。人間の小さな寝息が聞こえる中、オオカミはどうにも眠れずにいた。雪は暗闇の中をしんしんと降り続けている。
ゼルデデは今晩は寝るつもりがないようで、静かに火の面倒を見ていた。仮面を外した顔が、弱い火にぼんやりと照らされている。
その瞳は青かったが、光の加減のせいか、わずかに金色に光っているようにも見える。ここ最近の怪物の瞳は、よくそういう不思議な色をしていた。オオカミはその色合いから目が離せなかった。
その目がゆっくりと周囲を見渡し、やがてオオカミの目と合う。
怪物は人間を起こさないためか、囁くように言った。
「お前もとっとと寝ろ。明日は日の出前に出る」
うつ伏せに寝そべったオオカミは、小さくくぅんと鳴いた。怪物は特に何の反応も返さなかった。オオカミはじっと、闇を背後にした怪物の姿を見つめていた。
怪物は夕方のことを思い出しているらしかった。上着よりずっと血の染みが広がった脇腹をさすり、顔をしかめる。痛みというよりは、どこか思い悩むような表情に思えた。その口から、聞き取るのもやっとな、独り言のような言葉が漏れる。
「あいつが刺したのが俺で、よかった。もしあいつが、自分に刃を向けるなぞしていたら……」
ゼルデデの喉元はわずかに震え、それ以上先のことは言わなかった。その瞳を炎越しに見ながら、オオカミはうとうととし始めた。
(こいつはただの動物じゃない。オオカミでも人間でも、トナカイでもない。でも確かにオレの仲間だし、人間の味方だ。一体何なんだろうか)
その答えなどなく、小さな呟きだけが、夜闇にぽつりとこぼれる。
「帰ったら、また服を縫わなきゃならん……」
オオカミは眠りに落ちるまで、怪物の焚き火の音に耳を傾けていた。
翌日の早朝、彼らは夜営地を後にした。
日の出よりも前、まだ空の群青がようやく白に霞み始めたくらいの頃だ。空の雲は昨日までよりずっと減っている。仮面の怪物、人間、オオカミの順に縦に並び、彼らは歩き始めた。
ゼルデデは、春先の滑りやすい雪の中を躊躇なく進みながら、時折ちらりと振り返り、人間の歩きを気にしているようだった。それでも人間にとってはかなり速かったようで、追い付くために何度も止まってもらう必要があった。オオカミは、足場の悪いところで人間の背を頭で押してやったり、転びそうになるのを支えてやるのだった。
道のりは長かった。この人間はこの森で迷い果ててしまってから、相当な距離を彷徨ったのだろう。それでも怪物は辺りの地形を知り尽くしているのか、足場が厳しいところを避けてなお、後戻りや余計な迂回はほとんどしなかった。
障害を避けられない時――例えば、雪解け水で増水した小川を渡ろうとする時は、怪物が一人と一匹を抱えて越えていった。そんな時、凍りそうなほど冷たい水に脚が濡れることは、意にも介していないようだった。人間が礼を言っても、怪物は黙ったまま歩みを進めるのだった。
彼らは昼に一度だけ休憩を挟んだ。
少し森が開けた岩場に立ち止まり、人間を休ませると、ゼルデデは
「弓矢を貸せ。何か獲る」
と声をかける。おずおずと差し出された弓を受け取って少し眺めると、オオカミを連れてその場を離れた。
オオカミにとって、怪物との狩りはもう慣れたものだった。自分は獲物の匂いを嗅ぎとって、それをうまく追い詰めればいい。シカなんかの群れを見つけると追い立てて、はぐれた個体をさらに追う。そうすれば怪物の弓が的確に獲物を仕留めるのだ。
この時は、産まれてから一歳に満たない若いシカを一頭狩ることができた。矢は見事に心臓に命中し、シカは少し走った先でばったりと倒れていた。
ゼルデデはさっと駆け寄り、脚を震わせるシカの頸動脈を切った。辺りの雪が真っ赤に染まる。それから腹を捌き内臓を取り出し、中の血汚れを新鮮な雪で拭き取った。
ゼルデデは手際よくそれらの処理をしながら、不満げに
「弓が小さすぎたな。いつものなら……」
と独り言をぶつぶつと呟いていた。
(確かに弓はいつもの半分以下の大きさだけどさ。獲れたんだからいいじゃないか)
オオカミは取り出された暖かな内臓に食らいつきながら、そう呑気に考えていた。
怪物はシカの前肢を片方切り取ると、残りを担ぎやすいようにロープで縛った。
ふたりが戻ると、人間は大層安心した様子を見せた。一人きりの間、よほど心細かったらしい。
切り取られたシカの脚は少し捌かれ、火にかけられて人間の昼食になった。仕留めたてで硬さがあるはずだが、人間はそんなことは気にならないとでも言うように旺盛に食べた。
食べきれなかった骨付きの肉を布に包みながら、人間は言った。
「昨日言われた通り、俺はお前の話をしないことにする。でもせめて、村に帰ったら礼はさせてくれないか! 村に入りたくないと言うのなら、俺が森まで運んでくるよ。食料でも道具でも、何でもやる!」
その言葉に、尚もゼルデデは
「いらん」
と冷たく返すばかりだった。人間は不満そうだったが、怪物の態度は岩のように揺るがなかった。
道中、怪物はふたりに何度か休憩と食事を挟ませたが、自身は少し遠くで立っているだけで、何も口にする様子がなかった。オオカミは
(お前は腹が空かないのか)
と訊ねようと鳴いてみせたが、怪物は
「帰りの道筋なら心配いらん。迷うことはない」
と返すのだった。オオカミはまた言葉が通じないもどかしさを覚えるばかりだった。
彼らは同じ調子で歩き続けた。やがて日が傾き、森に影が差しはじめる。
(そろそろ寝る場所を探さなきゃならないんじゃないか。夜になっちまうぜ)
オオカミはそう考えたが、怪物は歩みを止める様子がない。
その時だった。
「ここだ!」
突然人間が叫び、立ち止まった。かと思うと、彼はゼルデデを追い越すように駆け出した。
「ああ、この景色だ! この目印も村のものだ……! ここまで来れば思い出せる、俺はあっちから歩いてきたんだ!」
人間は足早に雑木林の中に歩み入り、感慨深い様子で辺りを見回した。
高ぶった様子の人間をよそに、ゼルデデは音もなく踵を返し、森へと歩き出す。礼を聞く前に立ち去ろうとするかのような、躊躇のない歩みだった。
(も、もう行くのか)
慌てて怪物の背を追おうとして、オオカミの脚は一瞬立ち止まる。その金色の瞳は人間のほうを向いていた。
(オレがあいつ……ゼルデデの元にいるのは、あの時、あいつの言葉が理解できたからだ)
オオカミは考えた。あの吹雪の日、怪物と出会った時のことを思い出す。
(でも、オレはこの人間の言葉も聞き取れた。それなら――オレは、人間と一緒に暮らすこともできるんじゃないか? オレは本当は、あいつと一緒にいる理由はないんじゃないか)
そこまで考えて、それは違うな、と思った。
(オレはあいつに、言葉以上のつながりがある気がするんだ。仲間みたいな、同じ群れの仲間みたいな……)
銀色の、孤独な獣。
未だ分からない怪物の正体だが、オオカミは彼にただならぬ親近感を覚えていた。この広大な山地で出会えたこともきっと偶然ではないのだろうと、彼の直感が告げていた。
オオカミは人間に背を向けて、怪物の姿を追って走り出した。音もなく、木々の間に気配を消してゆく。
オオカミも怪物も、振り返らなかった。
ゼルデデの名を呼ぶ人間の声が、夕暮れの雪山に何度も響いていた。
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#銀嶺の獣ゼルデデと人間の話
※野生動物の狩猟、キャラクターの流血表現を含みます
オオカミが怪物と出会った、初めての冬が終わろうとしていた。
そのとき怪物は川まで水を汲みに外へ出て、オオカミもその後について歩いていた。
太陽は白く濁った雲に覆われて見えなかったが、おそらく空の天辺を少し過ぎた頃だろう。昨日の午後から雪は降ったり止んだりを繰り返していた。
辺りの景色はまだ分厚い雪に覆われていたが、麓のほうを見れば、以前より少し雪の白が減っているように見えた。怪物の家からは、その雪解けの境目が日に日に山腹を登ってくるのがよく見えた。
背の高い怪物は、その枝角がぶつからないように器用に木々の間を抜け、斜面をずんずん歩いていく。オオカミははぐれないようにその背中をせわしく追った。白い雪に、蹄と肉球の足跡が残される。
やがていつもの水汲み場に近いところまで来ると、怪物は口を開いた。
「おい」
その無愛想で短い呼び掛けに、オオカミはバウッと鳴いて応える。
「昨日かけた罠の様子を見てきてくれ」
オオカミはまた短く一度吠えて、言われた通りに、仕掛け罠があるほうへ駆けていった。
彼は未だ怪物と会話をすることは叶わなかったが、怪物の方はオオカミが自身の言葉を解しているようだということが、多少なりとも分かってきていたようだった。それでここ何日かかけて、オオカミはようやく簡単な意思を伝えることができるようになっていたのだ。イエスなら短い吠えを一度、ノーなら短くうなる、といった具合である。
オオカミはもっと自分の考えをはっきりと伝えたいと思っていたが、怪物のほうがいつも必要最低限のことしか喋らないので、これ以上の会話は不可能だったのだ。
(もっと色んなことを話したいのに。あいつの正体だって、名前だって、何にも知らないんだから!)
そう考えながら、彼は木々と雪の間をすり抜けて進んでいった。昨日の記憶と匂いの痕跡を頼りにしながら、いくつかの地点を確認して回る。
昨日怪物が仕掛けたくくり罠には、ほとんど何もかかっていなかった。そのうちの一つにはイノシシの足跡が残されていたが、罠に気づいていたのか、辺りを警戒して避けていった様子が見てとれた。
(ここもだめ……ここもか。残るはあと一つだ)
獲物がいないことが分かると、すぐにその場から離れる。オオカミは最後の罠を確認しに向かった。
目的の地点に近付くと、雪で縁取られた黒い木々の向こうに、何かが動いているのが見えた。それが動くたび、辺りの白い雪がぱっ、ぱっと飛び散る。
それを見て、オオカミは反射的に藪に身を隠した。瞳孔を開き、息をひそめる。
(ウサギだ)
白い塊が、後ろ足を地面の罠にとられて暴れていた。掴まってからあまり時間は経っていなさそうだ。
ひとつ、ふたつ、と呼吸を数えながら、意識を研ぎ澄ませる。
(――今だ!)
オオカミは木の影から勢いよく飛びかかった。
相手に向かったその大きな牙は、小動物の首元をまっすぐ捉えた。彼は暴れる体を前足でしっかりと押さえこみ、ウサギの細い首筋に牙をぐぐっと押し込んだ。
温かい血が白い毛皮を伝い、雪を赤く染める。
ウサギはしばらくの間激しくもがいていたが、やがてじっと動かなくなった。四肢の力が抜けて、だらりと雪の上へ垂れる。それを確認してようやく、オオカミは獲物から口を離した。
(やったぞ。あいつに教えなきゃ)
群れにいた頃はいつも白い目を向けられていた狩りの腕前だが、今のような生活なら役に立てられる。そのことはオオカミに自信を与えていた。
オオカミが遠吠えしようとしたその瞬間、ピィーッと高い音が空につんざいた。鳥の声にも似た音だが、今の季節のこの山に、あんな鳴き方をする鳥はいない。オオカミには、その音の正体がすぐに分かった。
(あいつの笛の音だ)
それは少し前、怪物がオオカミの目の前で吹いて見せたものである。確かあの時は
「これを鳴らしたら、おれのもとへ来い。……お前がどれほど理解してるのかは、分からんが」
と、そう言われたのだった。
勿論このオオカミはその時言われたことを理解し、そしてしっかりと覚えていたのだが、今ここを離れるわけにはいかなかった。彼の前足では獲物のウサギを罠から取り外すことができなかったし、かといって新鮮な肉を置いていくのも惜しかったのである。
そこでオオカミは何度か空に向かって吠えた。声は白い空にしんと響く。
少しもしないうちに、怪物は斜面をずんずん登ってやって来た。少し早い足どりは、一切の迷いなくオオカミのもとへたどり着いた様子を示していた。
怪物はオオカミと、その足元で息絶えたウサギを順番にちらりと見て
「捕れたか」
と呟いた。オオカミが軽く吠えて答える間もなく、慣れた手付きでウサギを罠から外す。獲物の脚をロープで手際よくまとめ、自分の腰紐にさっさと結びつけながら、怪物は言った。
「これだけか?」
オオカミはその通りだと言うように吠えて答えた。怪物は僅かに頷くとさっと立ち上がり、休む間もなく足早に歩き出した。
それは家とは逆の方向だった。よく見れば腰に下げられた水汲み樽も空である。怪物はオオカミが着いてくるのを横目でちらりと確認すると、またぼそりと言った。
「用事ができた。……少し急ぐ」
怪物は、それ以上は何も言わなかった。オオカミは黙って着いていきながら、こう考えた。
(普段より少し、落ち着きがないみたいだ)
それは、獲物を扱う時の怪物の視線の動きや手付き、それに今の歩き方なんかから、なんとなく感じられるのだった。普段と比べるとほんの僅かな違いだが、オオカミが知るこの数ヵ月間では初めての様子だった。
怪物はほとんど立ち止まることなく歩いていった。
この辺りは倒木や低木が雪に隠れて歩きづらいにも関わらず、一切の迷いのない進み方だった。まるで、どこを踏めばいいのか全て分かりきっているかのようだ。オオカミは怪物が作った雪道をなぞるように、足跡を重ねながら歩いていく。普段より悪い足場を構わず進んでいくところを見るに、本当に急いでいるようだった。
怪物の言う通り、その道のりは随分と長かった。
山脈の向きに沿うように、それでいて少しずつ標高が低い方へ進んでいく。普段の行動範囲を大きく外れていて、オオカミも初めて来るような場所だった。
怪物は時折立ち止まっては、トナカイのような耳を立ててじっと何かを聞きとり、また歩き出すのだった。
オオカミは、怪物のこの行動の不可解さはさておいて
(こいつの縄張りはずいぶん広いんだな)
と素直に感心するのだった。
日が傾き、木々の下に薄暗さが立ち込めはじめた時、怪物はふと歩みを遅めた。オオカミがちゃんと着いてきているのを見ると
「この辺りだ」
と小さく呟く。まるで独り言のような言葉だったが、それは状況が一切分かっていない自分のために言ってくれているのだろう、とオオカミは理解した。
怪物は辺りを見回し聞き耳を立てながら、上着の中からあの仮面を取り出した。黒っぽく硬い素材で出来ていて、目のところに細い隙間が開いている奇妙なものだ。
怪物はそれを顔に着けると、また辺りに注意を配りはじめる。
オオカミはこれまでの観察から、その仮面が何のためのものなのかを考えていた。
(あの顔のやつ、一体何なんだろうか。これまでは天気が良い日によく着けるから、眩しいのかと思ってたけど……今は夕方の曇りなのに、どうして着けるんだ?)
しかし、その推理と新たな疑問は、すぐに頭の隅に追いやられた。
目の前の怪物が、不自然にぴたりと立ち止まる。オオカミの視線はまず怪物に向かい、それからその視線の先にと移った。
そこにいたのは一匹の生物だった。
オオカミにとって初めて見るその生物は、なかなか奇妙なものだった。
二本足で立つ姿はすぐそこにいる怪物によく似ているが、より小さな背丈で、頭の角もない。脚もトナカイのようなものとは違って細くまっすぐ縦に伸びて、足先は分厚い布で覆われているようだった。腕には、先に布が巻かれた木の枝が握られている。
怪物と比べると、随分と小さく細く、弱々しく見える。
その姿を見たオオカミの脳裏に、ひとつの単語が浮かんだ。
(あれは、人間だ)
何気なくそう思ったことを飲み込みかけて、いや、と首を振る。自分自身に対するひとつの疑問が浮かんできたのだ。
(オレは人間を知っている……? 初めて見るのに、どうして……)
それが何故なのかという問いは、瞬間、耳につんざく叫び声で搔き消された。
「ひっ……こ、殺さないでくれ!」
人間はその叫びと同時に、手に持った棒を振り回しながら一歩後ずさった。懐を探るものの、ぶるぶると震える手では何を取り出すこともできない様子だった。目を見開き、歯をがちがちいわせている。
怪物はまったく対称的な落ち着き払った様子で、人間に語りかけた。
「殺す気はない。そこは足場が悪いから、こっちへ来い」
オオカミはその言葉で初めて、人間の背後からごうごうと滝のような音が響いているのに気がついた。おそらく崖の向こうが、急な川にでもなっているのだろう。人間が向こうへ逃げていこうとしないのも、それで合点がいった。
それでも人間は動こうとせず、怪物を追い払おうとするかのように、木の枝をむやみやたらに振り回した。
途端、人間の足が雪の下の岩でわずかに滑ったようだった。体勢がぐらつき、片方の足を踏ん張る。しかしそれが切っ掛けとなったのだろう。
人間の足元の岩が、がらがらと川の方へ崩れる音がした。
(大変だ、助けなきゃ!)
咄嗟にそう考え、オオカミの脚は駆け出した。一直線に向かえば間に合う――。
しかし、彼の牙は人間の服を掴むことができなかった。オオカミは川に落ちるすんでのところで踏みとどまり、頭上を見上げる。
さっきまで目の前にあったはずの人間の足が、今は頭上に見えたからだ。
オオカミが人間の服を咥えるよりずっと速く、怪物の手が、人間の首根っこを掴み上げていたのだ。
「……だから、足場が悪いと言ったのだ」
怪物はかすかな溜め息とともに、そう呟いた。
服の首元を掴まれ、細く頼りない足先はわずかに地面から浮いた。その人間が持っていた棒切れは、足下に広がる川に落ちていった。人間の口からは
「ひ……うっ……」
と、小さな音のような声が漏れるばかりだ。その視線は泳ぎ、手足は震えている。
怪物は人間が落ちないように――あるいは、崖下の川を覗き込もうとでもしたのだろうか――小さな身体を持ち上げたまま自身のほうへ引き寄せ、わずかに身を乗り出した。
その時、人間の上着の下に隠れた腰元から、銀色の鋭利な切っ先がちかっと光った。
――オオカミにとってさえも、一瞬の出来事だった。
それを払い落そうと飛び掛かる間もなく、ナイフは怪物の腹へ、真っ直ぐ突き立てられた。
怪物の体がわずかに震え、息が詰まる音が聞こえる。紺に染められた毛皮が、刃物の縁からじわりと黒く染まった。
しかし、それだけだった。怪物の仮面の下に覗く表情には、一切の動揺が見られない。人間を持ち上げたままの腕もびくともしなかった。息を止めた一瞬にちらりと自分の体を見ただけで、あとはただまっすぐ、人間を見据えていた。
やがてゆっくりと吐き出される息が、白く染まる。
人間はその様子に気が付くと、みるみる青ざめていった。
震えた小さな手が、刺さったままのナイフの柄からこぼれ落ちた。
腹に刺さった刃物をそのままに、怪物はゆっくりと二、三歩下がると、人間を地面に下ろした。腰が抜けた人間はそのままへたり込み、巨大な姿を見上げるばかりだ。
怪物はゆっくりと、言い聞かせるように言った。
「これは無駄なことだ。俺は、お前に危害を与えない。話を聞け」
それから小さく息を吸い、大きな手が細いナイフの柄を掴む。怪物がゆっくりと自らの腹から刃を引き抜くと、服に空いた穴から赤黒い液体がどくりと漏れだした。
静かに流れ出る血によって毛皮の染みはあっという間に広がり、服に施された模様をも次々と赤くしていた。
オオカミの鼻腔に、鉄っぽい匂いが充満してゆく。
(おい、かなり血が出てる! このままじゃ死んじまうぜ!)
彼はそれを伝えようと必死に何度も吠えたが、怪物はかすかに口元をしかめて
「うるさい。俺は人間は殺さんし、食いもせんぞ。お前にもやらん」
と言うばかりだった。
(ああ、もう! そんなことが言いたいんじゃないんだよ、オレはお前のほうを心配してるんだ!)
オオカミは歯がゆい思いでいっぱいだった。もし今怪物と同じ言葉を喋ることができたら、どんなにありがたいだろう! しかしそれは彼にとって、空から食事が降ってくるとか、急に狩りが上手くなるとか、そういった事と同じくらい望めないことだった。
彼はつい吠え続けながらも、焦る頭で考えた。今のオオカミには、ひとまず自分も人間の味方だということを示す必要があった。そこで、雪の上に尻餅をついたままの人間のもとへ歩み寄り、くうんと鳴いたり、そっと鼻先でつついたりするのだった。
怪物はそれを見て軽く鼻を鳴らし、人間に向き直って静かに言った。
「山道に迷ったのだろう。送ってやる」
人間は視線を泳がせたまま、何かよく分からないことをぶつぶつと繰り返している。ろれつも回っていないようで、オオカミにも何も聞き取れなかった。
怪物は少しの間それに耳を傾けていたが、やがて
「疲労で判断力が鈍っとる」
と呟いた。
彼は毛皮で雑に拭いたナイフを腰帯に留めると、人間を軽々と持ち上げて小脇に抱え込んだ。腕をしっかりと押さえ込むような姿勢にされ、呆然とした人間はされるがままだった。
怪物が立ち上がる瞬間、オオカミは自分の目と鼻を疑った。怪物の巨体が立ちくらみのようにほんのわずかにふらついた――にも関わらず、その腹の傷からは、もう古い血の匂いしかしなくなっていたからだ。服を伝う血液の流れも、もう止まっていた。
戸惑うオオカミに、怪物は低く声を掛ける。
「おい、寝る場所を探すぞ」
オオカミははっとして、ひとつ吠えた。
夜の闇はあっという間に迫ってくる。夜営するための場所を探し始めてすぐ、川の上流に窪んだ岩壁があったのは幸運だった。
冷たい空気をすべて防ぎきれるわけではないが、風が当たらない場所もある。怪物は一番奥に人間を下ろし、その手前で火を焚いた。辺りには岩も木の枝も沢山あったから、火床を作るのも簡単だった。
それから怪物は自分の上着を脱ぎ、人間に差し出した。
「さっきの血がついとるが、ないよりはましだろう」
断る気力もない人間は、黙って重たい上着を受け取る。手に取ってすぐにその匂いに顔をしかめたが、仕方ないと諦めた様子でのそのそと背中に被せた。
オオカミは上着に潜り込み、人間の背中に密着するように寝そべった。息を飲む音が背中越しに聞こえたが、怪物は作業の傍らでその様子を見やって言った。
「そのオオカミは大丈夫だ。……おおかた、そいつの親切心で体温を分けてやろうとでもしてるんだろう」
オオカミは顔を出し、機嫌良くひと鳴きした。
(その通りだよ! よく分かってるじゃないか)
怪物の言葉を信じきれない様子の人間は、まだオオカミのほうをちらちらと見ながら体をこわばらせていた。それでも焚き火で体が温まってくるにつれ、緊張はほどけていったようだった。体の震えもおさまっていた。
辺りが本格的に暗くなり、焚き火が投げる光だけが森の中に残り始めた。闇の中に雪がちらつき始める。聞こえるのは、少し遠くを流れる川のうなりと、枝が燃えるかすかな音、そして怪物の立てる物音だけだった。
怪物は昼間のウサギを雪の上で捌いてきたようだった。骨が付いたままの肉を弱火にかけ、その一方で雪を溶かして水を作る。火の隅の平らな石の上では内臓が焼かれている。その匂いにオオカミは涎が止まらなかった。
怪物の手際の良い行動のすべてを、人間はじっと黙って見つめていた。何を感じ、考えているのか、オオカミにはまるで分からなかった。
怪物は焚き火を挟んでどっしりと座り込むと、口を開いた。
「飯を食って寝れば、明日には回復してるだろう。……村へ送ってやる、どこの出だ」
「……ウザト」
人間の答えに、怪物は仮面の下で満足げに頷いた。
会話はそれきりで、再び静寂が訪れる。
やがてウサギに火が通ったのを見ると、怪物はぼそりと
「いいだろう」
と呟いた。懐から包みを取り出して、中の小さな硬いパンをいくつか人間に投げ渡し、こんがりと焼けたウサギの後ろ脚を一本差し出した。
「血抜きが足りんから臭いだろうが、死ぬようなもんじゃない。食え」
人間は受け取った肉と怪物を交互に見やると、ごくりと息をのんだ。おそるおそる口をつけた――と思うや否や、がつがつと夢中で食べ始めた。どれだけ飢えていたのかと驚くほどの食べっぷりに、横で同じものを食べているオオカミさえも目をみはる。
最初の肉もパンもあっという間になくなり、怪物は次の一切れを差し出した。人間はもう躊躇することなく、その恩恵に食らいついた。
一方で、怪物はほんの少しの肉と内臓に手を付けただけだった。いくらかをオオカミのために取り分けて冷まし、それ以外のほとんどを人間に食べさせた。
オオカミにとってはそれほど多い食事ではなかったが、内臓を半分分けてもらったことでとても満足していた。
(オレは生でもいけるんだけどな。でもまあ、焼いたのも案外悪くない)
オオカミが自分用の肉をぺろりと平らげて満足げに横たわるそばで、怪物は木彫りの小さなカップで沸いた湯を掬い、
「冷まして飲め」
とだけ言って人間に手渡した。
受け取る瞬間、人間はとても不思議そうな顔をして、怪物の顔をじっと見つめていた。堅牢な仮面の下は、瞳の色はおろか眉の動きすら読めない。それでも何かに気付いたらしい人間は、やがて一つの質問を投げかけた。
「……お前、ゼルデデか」
その言葉に、オオカミは耳をぴんと立てた。
怪物の表情は相変わらず読めないが、動揺する様子もなければ、否定の言葉も出なかった。普段と全く同じ様子で、静かに口を結んでいる。
(こいつ、ゼルデデって名前だったのか)
怪物は何も言おうとしなかったが、人間がいつまでも返事を待っているのを見て、やっと諦めたかのように言葉を漏らした。
「だったら、どうした」
いつも通りの低く擦れた声だ。だがオオカミには、その響きに疲労のような、少しの憂いが混じっているように感じられた。
人間は納得した様子で何度か静かに頷くと、また口を開いた。
「村のじいさんが、よく言っていたんだ。山奥にはゼルデデという巨人がいて、迷いこんだ人間を襲うんだと」
オオカミはちらりと怪物のほうに視線をやった。
(人間を襲うだって? 確かに見た目は怖いやつだが、そんなことないぜ)
そんな思考を知るよしもなく、人間は肩を軽くすくめて続けた。
「どうせ俺らを山奥に立ち入らせないためのお伽話かと思っていた。山の巨人だなんて、ありきたりな伝承だと。しかし、いざ山道を見失ってしまうと、本当に怖かったんだ。下山しようと歩き続けても村に戻れなくて、天気も悪くなりやがる。やっと見つけた川に沿っていくら進んだが、帰れる気配が一向に感じられないんだ」
先程までのことを思い出したのか、人間の声はか細くなり、その指先は震えていた。
「何度、もうだめだと思ったか知れない。でも、だ。まさかあのゼルデデが本当に居たなんて……しかも、こんなに親切にしてくれるなんて、思ってもみなかった」
ゼルデデはなおもじっと黙りこくり、人間が話したいようにさせていた。人間はにわかに仮面の顔を見据えて言った。
「皆、お前のことをほら話の怪物だと思っている! でも事実は違う。俺はこうしてお前の親切に命を助けられている。お前は本当は善人なんだろう? 俺は、村に帰ったら本当のことを話すよ。ゼルデデは本当に居るんだと、人間の味方なんだと、皆に伝えようと思うんだ」
長い髪の下で、怪物の耳がぴくりと動いた。
「お前の言い伝えは、他の村でも――」
人間が続けようとしたその言葉を遮って、ゼルデデは低く、しかしはっきりと言い放った。
「ありがたいとでも、言うと思ったか」
人間は戸惑い、言葉を失った。怪物の声色には、オオカミがまだ聞いたことがない怒りの様子が感じ取れた。
ゼルデデはまた黙ってしまった。少しの沈黙が流れ、焚き火の音が岩壁に響く。
やがて怪物は口から長いため息を吐き出したかと思うと、無愛想にこう言った。
「俺がいるからって、気軽に山へ入られるようになったら、手間が増えて迷惑な話だ。訂正する必要など、ない」
オオカミは黙って聞き耳を立てていたが、怪物の言い分には納得を覚えていた。
怪物が何故こんな場所に住んでいるのかは、未だ謎だった。それでも今日、こうしてわざわざ長い距離を歩いて、こいつは人間のもとへやって来たのだ。
このゼルデデという男は、きっと人間のことを嫌っているわけではないのだろう。むしろ自分の力をもってして助けたいとすら思っている。だからこそ、彼らがこの山に入ってみすみす危険を冒すようなことが、あってほしくはないのだ。
(どうして人間のこと好きなのに、人間と暮らさないのか……それは謎だけどさ)
でも、と人間は口を開いた。
「でも……でもお前は確かに俺の命の恩人だ。村に帰ったら礼をする……それに、さっき刺した詫びも、させてくれ」
たどたどしい言葉だが、その目はまっすぐに仮面の隙間を見つめていた。それでもゼルデデは首を横に振る。
「恩も礼もいらん。人間が俺の縄張りで死ぬのを、見たくないだけだ。腹の傷も、塞がった」
そう言いながら、脇腹のあたりを静かにさする。黒っぽく染まった毛皮は乾ききっていて、もうしばらく新しい血が出ていないことを教えていた。
ゼルデデは
「もう寝ろ。明日は早い」
としか言わず、人間も何も返さなかった。
やがて、完全な夜が訪れた。人間の小さな寝息が聞こえる中、オオカミはどうにも眠れずにいた。雪は暗闇の中をしんしんと降り続けている。
ゼルデデは今晩は寝るつもりがないようで、静かに火の面倒を見ていた。仮面を外した顔が、弱い火にぼんやりと照らされている。
その瞳は青かったが、光の加減のせいか、わずかに金色に光っているようにも見える。ここ最近の怪物の瞳は、よくそういう不思議な色をしていた。オオカミはその色合いから目が離せなかった。
その目がゆっくりと周囲を見渡し、やがてオオカミの目と合う。
怪物は人間を起こさないためか、囁くように言った。
「お前もとっとと寝ろ。明日は日の出前に出る」
うつ伏せに寝そべったオオカミは、小さくくぅんと鳴いた。怪物は特に何の反応も返さなかった。オオカミはじっと、闇を背後にした怪物の姿を見つめていた。
怪物は夕方のことを思い出しているらしかった。上着よりずっと血の染みが広がった脇腹をさすり、顔をしかめる。痛みというよりは、どこか思い悩むような表情に思えた。その口から、聞き取るのもやっとな、独り言のような言葉が漏れる。
「あいつが刺したのが俺で、よかった。もしあいつが、自分に刃を向けるなぞしていたら……」
ゼルデデの喉元はわずかに震え、それ以上先のことは言わなかった。その瞳を炎越しに見ながら、オオカミはうとうととし始めた。
(こいつはただの動物じゃない。オオカミでも人間でも、トナカイでもない。でも確かにオレの仲間だし、人間の味方だ。一体何なんだろうか)
その答えなどなく、小さな呟きだけが、夜闇にぽつりとこぼれる。
「帰ったら、また服を縫わなきゃならん……」
オオカミは眠りに落ちるまで、怪物の焚き火の音に耳を傾けていた。
翌日の早朝、彼らは夜営地を後にした。
日の出よりも前、まだ空の群青がようやく白に霞み始めたくらいの頃だ。空の雲は昨日までよりずっと減っている。仮面の怪物、人間、オオカミの順に縦に並び、彼らは歩き始めた。
ゼルデデは、春先の滑りやすい雪の中を躊躇なく進みながら、時折ちらりと振り返り、人間の歩きを気にしているようだった。それでも人間にとってはかなり速かったようで、追い付くために何度も止まってもらう必要があった。オオカミは、足場の悪いところで人間の背を頭で押してやったり、転びそうになるのを支えてやるのだった。
道のりは長かった。この人間はこの森で迷い果ててしまってから、相当な距離を彷徨ったのだろう。それでも怪物は辺りの地形を知り尽くしているのか、足場が厳しいところを避けてなお、後戻りや余計な迂回はほとんどしなかった。
障害を避けられない時――例えば、雪解け水で増水した小川を渡ろうとする時は、怪物が一人と一匹を抱えて越えていった。そんな時、凍りそうなほど冷たい水に脚が濡れることは、意にも介していないようだった。人間が礼を言っても、怪物は黙ったまま歩みを進めるのだった。
彼らは昼に一度だけ休憩を挟んだ。
少し森が開けた岩場に立ち止まり、人間を休ませると、ゼルデデは
「弓矢を貸せ。何か獲る」
と声をかける。おずおずと差し出された弓を受け取って少し眺めると、オオカミを連れてその場を離れた。
オオカミにとって、怪物との狩りはもう慣れたものだった。自分は獲物の匂いを嗅ぎとって、それをうまく追い詰めればいい。シカなんかの群れを見つけると追い立てて、はぐれた個体をさらに追う。そうすれば怪物の弓が的確に獲物を仕留めるのだ。
この時は、産まれてから一歳に満たない若いシカを一頭狩ることができた。矢は見事に心臓に命中し、シカは少し走った先でばったりと倒れていた。
ゼルデデはさっと駆け寄り、脚を震わせるシカの頸動脈を切った。辺りの雪が真っ赤に染まる。それから腹を捌き内臓を取り出し、中の血汚れを新鮮な雪で拭き取った。
ゼルデデは手際よくそれらの処理をしながら、不満げに
「弓が小さすぎたな。いつものなら……」
と独り言をぶつぶつと呟いていた。
(確かに弓はいつもの半分以下の大きさだけどさ。獲れたんだからいいじゃないか)
オオカミは取り出された暖かな内臓に食らいつきながら、そう呑気に考えていた。
怪物はシカの前肢を片方切り取ると、残りを担ぎやすいようにロープで縛った。
ふたりが戻ると、人間は大層安心した様子を見せた。一人きりの間、よほど心細かったらしい。
切り取られたシカの脚は少し捌かれ、火にかけられて人間の昼食になった。仕留めたてで硬さがあるはずだが、人間はそんなことは気にならないとでも言うように旺盛に食べた。
食べきれなかった骨付きの肉を布に包みながら、人間は言った。
「昨日言われた通り、俺はお前の話をしないことにする。でもせめて、村に帰ったら礼はさせてくれないか! 村に入りたくないと言うのなら、俺が森まで運んでくるよ。食料でも道具でも、何でもやる!」
その言葉に、尚もゼルデデは
「いらん」
と冷たく返すばかりだった。人間は不満そうだったが、怪物の態度は岩のように揺るがなかった。
道中、怪物はふたりに何度か休憩と食事を挟ませたが、自身は少し遠くで立っているだけで、何も口にする様子がなかった。オオカミは
(お前は腹が空かないのか)
と訊ねようと鳴いてみせたが、怪物は
「帰りの道筋なら心配いらん。迷うことはない」
と返すのだった。オオカミはまた言葉が通じないもどかしさを覚えるばかりだった。
彼らは同じ調子で歩き続けた。やがて日が傾き、森に影が差しはじめる。
(そろそろ寝る場所を探さなきゃならないんじゃないか。夜になっちまうぜ)
オオカミはそう考えたが、怪物は歩みを止める様子がない。
その時だった。
「ここだ!」
突然人間が叫び、立ち止まった。かと思うと、彼はゼルデデを追い越すように駆け出した。
「ああ、この景色だ! この目印も村のものだ……! ここまで来れば思い出せる、俺はあっちから歩いてきたんだ!」
人間は足早に雑木林の中に歩み入り、感慨深い様子で辺りを見回した。
高ぶった様子の人間をよそに、ゼルデデは音もなく踵を返し、森へと歩き出す。礼を聞く前に立ち去ろうとするかのような、躊躇のない歩みだった。
(も、もう行くのか)
慌てて怪物の背を追おうとして、オオカミの脚は一瞬立ち止まる。その金色の瞳は人間のほうを向いていた。
(オレがあいつ……ゼルデデの元にいるのは、あの時、あいつの言葉が理解できたからだ)
オオカミは考えた。あの吹雪の日、怪物と出会った時のことを思い出す。
(でも、オレはこの人間の言葉も聞き取れた。それなら――オレは、人間と一緒に暮らすこともできるんじゃないか? オレは本当は、あいつと一緒にいる理由はないんじゃないか)
そこまで考えて、それは違うな、と思った。
(オレはあいつに、言葉以上のつながりがある気がするんだ。仲間みたいな、同じ群れの仲間みたいな……)
銀色の、孤独な獣。
未だ分からない怪物の正体だが、オオカミは彼にただならぬ親近感を覚えていた。この広大な山地で出会えたこともきっと偶然ではないのだろうと、彼の直感が告げていた。
オオカミは人間に背を向けて、怪物の姿を追って走り出した。音もなく、木々の間に気配を消してゆく。
オオカミも怪物も、振り返らなかった。
ゼルデデの名を呼ぶ人間の声が、夕暮れの雪山に何度も響いていた。
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