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No.697

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#銀嶺の獣
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「あ! 魚いたよ!」
 ニーナが川のほうへぐいっと身を乗り出す。
 彼女が指差す先では、水が穏やかに流れていた。朝日を受けた水面は、静かに音をたてながらちらちらと輝いている。小さな沢は、ここ数日の雪解け水でいつもより僅かに水流が速い。
 ゼルデデは、ついさっき少女に持たされた枝の片方を軽く引っ張って警告した。
「あまり、川縁に近づくんじゃない。……雪が滑って、落ちるぞ」
「大丈夫だよ! ほら、ニーナは枝のこっち側持ってるから。こうやって、手を離さなきゃいいんだよ」
 無邪気な少女はそう言って、枝の片側をつかんだまま体重をかけるように川を覗き込む。
 ゼルデデは枝と紐を握る手を強めた。
 細い紐はニーナの腰元につながっていた。それは、まだ幼く落ち着きのない彼女を森で見失わないよう、数週間前に結びつけるようにしたものだ。
 幸か不幸か、この紐は既に何度かその役目を果たしていた。
 また今日も面倒事が起こるのかと、うんざりした気持ちになる。
「川縁は危ないんだ。前にも一度川に入って、ひどい風邪をひいただろう。あれと同じようになる……」
「ゼルデデほら! あそこにも! あの魚、捕まえられないかなあ?」
 心配をよそに、ニーナは水の中の気配に夢中になっていた。川のほうへ重心を移動させるたび、小さな靴はぎゅう、と微かな音を立てて雪に沈み込む。
 ゼルデデは仮面の下で眉をしかめ、低いため息を吐く。それから、脇でそわそわとしているオオカミに声をかけた。
「おいアル。お前も見ていないで、こいつを止めろ。俺は、病人の面倒をみるのは、こりごりなんだ」
 オオカミはその不機嫌そうな顔を一瞬見上げてから、真意を察する。
『ニーナ、ゼルデデが心配してるぜ』
 湿った鼻でぐいと胸元を押され、ニーナは唇を尖らせた。「はーい」と煮え切らない返事をして、ゼルデデの足元まで後ずさる。
「ね、ゼルデデはあの魚とれる?」
 ニーナを連れて数歩下がりながら、ゼルデデは仮面越しの川に目をやった。銀に光る水面の下で、小さな影が揺れているのが見える。
「捕れるが、ここのは小さすぎて、食えるようなものではない。わざわざ捕ろうとは、思わん」
 そう不愛想に言った数拍の後、ゼルデデはまた口を開いた。
「……興味があるなら、後で釣具でも作ってやろうか」
「釣り! やりたい! ね、早くお散歩終わらせて帰ろうよう」
 少女は見上げた瞳を輝かせて、ぐいぐいと枝を引っ張る。
 わがままな振る舞いに呆れながら、ゼルデデは白い息を吐いた。

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