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No.741

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#知恵の劇場 単発小説
芸術館のロージィ(パフォーマンスアーティスト)とアンナ(建築家のウミウシ人魚)の話。
芸術館展示室内における未申請パフォーマンス記録

「あ、ロージィじゃないか」
 アンナは目の端に同僚の後ろ姿をとらえ、その名前を呼んだ。返事はない。静寂のなかで、ただ静かに佇むマゼンタの背中があるだけだった。
(ふん。普段はあんなにやかましいってのに、このボクの挨拶は無視かよ)
 アンナは口角を下げてむっとした。自分を無視するその顔を見てやろうと、ウミウシ人魚の身体を押し込めた小型水槽を操作して、ロージィの前方に回り込む。その顔を覗き込んで、彼は少しぎょっとした。
 ロージィの視線は芸術館ホールの端の白い壁をただ見つめ、その口は静かな真一文字に閉じられていた。いつだってにこやかに笑って機嫌よく返事をする、あの陽気な人物とは同じに思えないほど、その表情は無機質だった。赤い視線は冷たく、ぴくりとも動かない。その手には、一輪の薔薇が握られていた。真っ赤だったであろう薔薇はすでに新鮮さを失い始めていて、くすんだ花びらにも張りがない。
「……なんだぁ、こいつ。おーい」
 アンナはその顔の前に手を振ってみたり、前髪をいじったりしてみるが、相手は一切の反応を返さない。視線は不気味なほど動じず、白い壁の一点を見つめたままだ。
(変なやつ。暇なのかは分からないが、いつも以上に話にならなさそうだな)
 人魚は呆れたように溜め息をつき、彼の顔から目を離した。その視線は何気なく、相手の手に握られている薔薇の花に映る。
 その視界に映ったものに対して、アンナは眉をしかめた。よく見れば、薔薇の棘がロージィの指から血を流していたのだ。緑色の三角の棘は彼の褐色の指先に食い込み、そこからわずかな血が細く垂れている。黒っぽく乾いた跡の上に、新しい血が流れて、それをゆっくりと繰り返して、手首に細く赤い汚れを作っている。垂れた血は袖に少し染み付いて滲み、それすら褐色に乾きはじめていた。
(こいつ、一体いつからこうしているんだ?)
 ウミウシの彼にとって、陸上生物のぬるく赤い血は、どこか未知な不快さをもっていた。ここの美しい大理石の床にこんなものを垂らされたら気分が悪い。そう思って、アンナはロージィの手に握られていた薔薇の花に手をかけた。
「貴様、これ――」
 その時、一枚の花弁が落ちた。
 薄く皴の入った、やわらかく生気のない赤い欠片が、白くひかる床に落ちる。
 花弁が床についたその瞬間、ロージィはようやく白い壁から視線を外し、人魚にゆっくりと顔を向けた。
「やあ。こんにちは、アンナ君」
 それはいつもの彼から口に出るようなものではなかった。声色も名前の呼び方も表情も、まるで別人のようだった。そこには跳ねる声色もカタコトの口調もおかしなイントネーションもなく、これまでに見たことのない穏やかさだけがあった。いつものあの、話の通じないほどの陽気さを知っている身からすれば、彼のこの態度はよっぽど異質で、いっそ不気味ですらある。
 人魚はその別人のような挨拶に、驚きのあまり口をぽかんと開けて数秒固まった。
「こんにちは、アンナ君。君が展示室にいるのは珍しいね?」
 ロージィは、丁寧な挨拶を繰り返し、落ち着き払った様子でそう言った。アンナは戸惑いつつ答える。
「……あ、ああ。たまにはここの内装を、見ようと思ってね」
「なるほど、それは良い。図面上での認識と実際に見るのとでは違いそうだものね。流石、かの有名な建築士アンナだ」
(こいつと話が通じるのが、こんなに不気味だとはな。いつものほうが何倍かましかもしれない)
 違和感のある会話に対して、アンナは心の中で悪態をついた。それから、気になっていたことをようやく訊ねた。
「ロージィ、キミはこんなところで何をしている?」
「薔薇を持って、立っているよ」
 薄く微笑んだまま、当人はただそれだけを答えた。
「そんなことは見ればわかる。ボクは、それに何の意味があるのかと聞いているんだ」
「意味は、ある場合にはあるし、ない場合にはない。僕は薔薇を持ってここに立っているが、それの意味はそれ自体にない」
 この意味不明な返答にアンナは頭をかきむしりたくなったが、人魚文化における最低限の礼儀として、それを我慢した。ロージィは相変わらずの平穏さと笑みでもって、アンナの顔を見つめている。
(普段と人が違うからと言って、わけが分からないことに変わりはないんだな。話すだけ無駄だったか)
 現実主義の建築家はそう結論付けて、その場を去ろうと自分の水槽を操作した。
 その振動が影響したのか定かではないが、ロージィの手元の薔薇がわずかに揺れ、その拍子にまた花弁がひとつ床に落ちる。
 アンナが、あ、と口に出したその瞬間、ロージィはその靴底でひとつめの花弁を踏み潰した。
 踵でひねるように力強く押しつぶす。靴の底から、わずかに赤い汁が滲んだ。
 ロージィは、ゆっくりと顔を上げる。目をまん丸く開けたままのアンナのほうを向き、口を開いた。
「何か?」
「……えっ」
「さっき、あ、と言ったから」
 薄っすらとした笑みとともに投げられたその問いかけに、アンナは戸惑いつつ答える。
「薔薇好きなのに、なんで踏みつぶしたんだって思って……。それに何より、床が汚れる」
 ロージィはその理由を聞いて満足そうにひとつ頷いた。手元の薔薇がその拍子にわずかに揺れる。三枚目の花弁が落ちる。二枚目の花弁が踏みつぶされる。指先から新しい血の雫が垂れて、床の上で赤い薔薇の色と混じり合う。四枚目の花弁が落ち、三枚目の花弁が潰され、床の赤を濃くしていく……。
 ――まともな話こそ通じないものの、平和主義で楽観的で、あらゆる美を肯定する――そんな普段の彼からはずいぶんとかけはなれた破壊性をもったその行為を前にして、アンナは何も言えずに、見ていることしかできなかった。
 しかし、足元を見下ろし、赤い痕跡を広げるように擦るロージィの表情は、変わらずにずっと穏やかな微笑みのままだった。
「ロージィ君、まだいたのかい」
 後ろからチーフの声が聞こえて、アンナはようやくその景色からはっと意識を引き戻された。
「……アラスチーフ。こいつは一体何をしているんですか」
「おそらくだけど、彼のパフォーマンスだよ」
 建築士の純粋な疑問に、ようやく一般的な見解が返された。上司はどこか納得するように頷き、続けた。
「芸術のひとつさ。昨日の夕方からずっと壁に向かっていたが、動きがあったんだね」
「昨日の夕方だって!? もう丸一日じゃないか!」
 アンナは驚きの声をあげた。なるほど、それで納得がいった。薔薇が萎れていたのも、ロージィの手から流れた血がもう何度も乾いていたのも、その時間によるものだったのだ。
 一日中薔薇を握りしめ、それが萎れるのを待って、ようやく落ちたその花弁を踏みにじる。これが前衛芸術だというのなら、何も分からないな、と呆れるような気持ちになった。だが、ここは芸術館である。何人も、他者の芸術を制限する筋合いはない。
「……後で掃除しておけよ」
 アンナの言葉に、ロージィは花びらからわずかに顔を上げる。彼はその微笑みを一辺も崩さず、静かに同僚に向けた。

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