Blog
カテゴリ「文字」[27件]
2026年3月3日(火)
〔22日前〕
文字
2026年1月26日(月)
〔58日前〕
文字
#銀嶺の獣
アルとゼルデデの出会いの話
ひどい吹雪だった。
雪はまるで波のように、絶えずごうごうと辺り一帯に打ち付ける。木の幹は雷のような音を立ててしなり、風は耳元で渦巻いた。吹雪は容赦なく、その冷たさを身体の芯まで染み渡らせようとしてくる。耳や指の先が痛み、感覚が鈍くなっていくのを感じていた。
銀の毛並みに白い雪が張りつき、周囲の景色に溶けてゆく。
一匹のオオカミは針葉樹の大木の根本に体を伏せたまま、その体の上に冷たい雪が積み重なるのをじっと動かずに耐えていた。いっそ穴でも掘って雪の中に身を隠した方が、この厳しい風を凌げるであろうことは分かっていた。しかし、もう自力で穴を掘るだけの体力も残っていなかったのだ。
やがて、雪と毛皮の見分けがつかなくなりそうになってきたその時、耳がわずかに動く。
(……遠くで雪崩が起きたか)
まぶたをほんの少し持ち上げてみる。目に入る景色は相変わらず、斜めに吹き荒れる雪で真っ白だった。
オオカミは再び目を閉じ、鼻の先を雪の中にうずめた。
(ここもいつ吞まれるか分からない。だけど、動いても動かなくても同じことだ。体は冷えたし、お腹も空いたし……さっきから眠くて仕方がない。もうオレは――)
その先の言葉を考えると、既に冷え切った背筋がさらに凍り付きそうに震えあがった。
(いや、まだだ。まだオレは死にたくない! こんな場所で、ひとりっきりで凍え死んでたまるものか!)
自分自身を鼓舞するように、彼は頭の中でそう繰り返した。しかし、それでも状況が好転するわけではない。雪は銀の毛皮の上に白い層を重ねていき、全身の温度を奪っていく。穴を掘るどころか、立ち上がる気力すら湧かなかった。
その時、周囲の唸るようなざわめきに混じって、木の枝の軽く擦れる音がした。
タイミングも大きさも、風が揺らすものとは全く違う。その音は確かに、何者かの気配を伴うものだった。
オオカミははっと意識を取り戻し、目を見開いた。毛深いまぶたから落ちた雪が、あっという間に風に飛ばされる。
彼の目の前には巨大な、それは巨大な縦長い影がひとつ、ぬっと立ちはだかっていた。
咄嗟に立ち上がり威嚇の姿勢になった――つもりだったが、痩せた細い脚は自分の体を持ち上げるのがせいぜいだった。身体はがくがくと震えるばかりで、何の警戒心も示せない。その謎の怪物を睨みつけ、唸り声をあげるのがせいぜいだった。
雪が視界を邪魔して、相手の顔は一切見えない。ぼんやりとしたシルエットが、薄暗い中に浮かぶばかりだ。
(熊か……? いや、角がある。でも、トナカイだとしても大きすぎるぞ)
焦るなか、思考は上手くまとまらなかった。目の前のその生き物は、これまでに見たことのある大型の生き物のどれとも違っていたのだ。しかし、自身の身に危険が迫っていることは明確だった。野生の本能が、自らにそう告げていたのだ。
牙をむき出して必死に唸っていると、その影は口を開いた。
風の音の合間にどっしりと低く響く、静かな声だった。
「オオカミか……まだ若いな。群れからはぐれたのか」
「!」
彼は息をのんだ。一匹のオオカミの身に、その言葉は鋭く突き刺さる。
(違う、はぐれたんじゃない、俺から離れたんだ!)
オオカミはそう叫ぶように、歯茎をむき出して、より激しく唸った。しかし、巨大な相手は怯むどころか、一切の動く様子すら見せなかった。
びゅう、と鋭い音を立てて風向きが変わる。一瞬の向かい風に巨大な怪物の匂いが乗って、オオカミの鼻まで届いた。つんとするほど冷たい空気に混じったわずかな匂いを、彼の鼻は正確に嗅ぎとった。
(なんだこれ、変な匂いだ。鹿でもあるし、熊でも、オオカミでもある……それから、焼けた木みたいな。他にも色々混ざってる。こんなの、どこでも嗅いだことない)
オオカミがそうして考える数秒の間に、怪物はゆっくりと踵を返していた。
「……ふん、可哀想にな」
そう吐き捨てて、それは億劫そうにのそのそと元来たほうへ歩き出す。強風の中を何でもないように進んで、その影は段々と吹雪の中にのまれゆく。白い地面に残された、トナカイに似た幅の広い蹄の足跡も、あっという間に風にかき消され始めた。
(あいつ、俺を食う気じゃないのか)
オオカミはどこか呆然としながら、遠ざかるその後ろ姿を見つめていた。
自分を襲うどころか、哀れむ言葉すらかけていった謎の生き物。あれが一体何者なのか、それはオオカミにはてんで分からなかったが、ただひとつ明らかなことがあった。
(……このままここにいても、凍え死ぬか飢え死ぬか、どちらかだ。もしあいつが俺を食うような奴じゃないなら、あいつについていけば、あるいは――)
オオカミは肺にひとつ冷たい空気を入れると、バウッとひと声あげた。
それでも怪物は立ち止まる様子がない。彼は全身のわずかな力を振り絞り、巨大な相手に飛びかかった。
ちょうど尻尾のように垂れ下がった部分に噛みついたその瞬間、オオカミは強い違和感を覚えた。中身がないのだ。そこには生き物としての温度も、骨や肉の質感もなかった。
「……変なオオカミだな。鼻が利かないのか? これはお前の仲間の毛皮だぞ」
巨大な怪物はそう言ってオオカミの首根っこを掴み、顔の前まで持ち上げた。
(たっ、高い!)
脚が宙に浮き、瞬間的に地面が遠ざかる。辺りの低木よりずっと高い位置まで一瞬で持ち上げられたのだ。その恐怖に、オオカミは反射的に脚をすくめて体を丸くした。
あまりの恐ろしさに、抵抗する勇気もなかった。それに、こんな高さから投げ落とされたりでもしたら、ただでは済まないだろう。怪物の意図は分からなかったが、無事に下ろしてもらうのが先決だ。
「キャン……キューン……」
下ろしてくださいと言わんばかりに、耳を伏せ、上目遣いでその顔を見る。
よく見れば、その毛むくじゃらの怪物の顔には毛がなく、上半分は黒っぽくて硬いものに覆われていた。目がどこかすらよく分からない。少なくとも、オオカミやトナカイのような長い顔ではなく、それどころか熊よりも平たい奇妙な顔であることは分かった。
それはまた数秒の間黙っていたが、やがて口をわずかに開いて、ゆっくり息を吐いた。
「……吹雪が止むまでだぞ」
オオカミの視界が明るかったのは、そこまでだった。一瞬のうちに、オオカミは狭くて暗い場所に押し込められた。怪物は彼を、自分の毛皮の中に入れたのだ。
すぐにわずかな縦揺れが始まり、怪物が歩き始めたのが分かった。
狭い隙間に乱雑に詰め込まれたオオカミは、何が起きたのか分からずに、手足をばたつかせて滅茶苦茶に声をあげた。暗闇の中、あの奇妙な匂いが鼻いっぱいにつく。
怪物は低くぴしゃりと言い放った。
「黙れ。捨て置いてもいいんだぞ」
その言葉に、オオカミはひとつ小さく鳴いて、暴れるのをやめた。
動くのをやめると、体はすぐに疲労を思い出したようだった。足先の冷えがじわじわとほどけ、波のような眠気が襲いかかってくる。狭い暗闇は暖かく、一定のリズムで揺れる。外の吹雪の音はにぶく聞こえ、もはや別世界のもののようだった。
こんなところで、寝てはいけない。
そう思う間もなく、彼はゆらゆらと意識を落としていった。
畳む
アルとゼルデデの出会いの話
ひどい吹雪だった。
雪はまるで波のように、絶えずごうごうと辺り一帯に打ち付ける。木の幹は雷のような音を立ててしなり、風は耳元で渦巻いた。吹雪は容赦なく、その冷たさを身体の芯まで染み渡らせようとしてくる。耳や指の先が痛み、感覚が鈍くなっていくのを感じていた。
銀の毛並みに白い雪が張りつき、周囲の景色に溶けてゆく。
一匹のオオカミは針葉樹の大木の根本に体を伏せたまま、その体の上に冷たい雪が積み重なるのをじっと動かずに耐えていた。いっそ穴でも掘って雪の中に身を隠した方が、この厳しい風を凌げるであろうことは分かっていた。しかし、もう自力で穴を掘るだけの体力も残っていなかったのだ。
やがて、雪と毛皮の見分けがつかなくなりそうになってきたその時、耳がわずかに動く。
(……遠くで雪崩が起きたか)
まぶたをほんの少し持ち上げてみる。目に入る景色は相変わらず、斜めに吹き荒れる雪で真っ白だった。
オオカミは再び目を閉じ、鼻の先を雪の中にうずめた。
(ここもいつ吞まれるか分からない。だけど、動いても動かなくても同じことだ。体は冷えたし、お腹も空いたし……さっきから眠くて仕方がない。もうオレは――)
その先の言葉を考えると、既に冷え切った背筋がさらに凍り付きそうに震えあがった。
(いや、まだだ。まだオレは死にたくない! こんな場所で、ひとりっきりで凍え死んでたまるものか!)
自分自身を鼓舞するように、彼は頭の中でそう繰り返した。しかし、それでも状況が好転するわけではない。雪は銀の毛皮の上に白い層を重ねていき、全身の温度を奪っていく。穴を掘るどころか、立ち上がる気力すら湧かなかった。
その時、周囲の唸るようなざわめきに混じって、木の枝の軽く擦れる音がした。
タイミングも大きさも、風が揺らすものとは全く違う。その音は確かに、何者かの気配を伴うものだった。
オオカミははっと意識を取り戻し、目を見開いた。毛深いまぶたから落ちた雪が、あっという間に風に飛ばされる。
彼の目の前には巨大な、それは巨大な縦長い影がひとつ、ぬっと立ちはだかっていた。
咄嗟に立ち上がり威嚇の姿勢になった――つもりだったが、痩せた細い脚は自分の体を持ち上げるのがせいぜいだった。身体はがくがくと震えるばかりで、何の警戒心も示せない。その謎の怪物を睨みつけ、唸り声をあげるのがせいぜいだった。
雪が視界を邪魔して、相手の顔は一切見えない。ぼんやりとしたシルエットが、薄暗い中に浮かぶばかりだ。
(熊か……? いや、角がある。でも、トナカイだとしても大きすぎるぞ)
焦るなか、思考は上手くまとまらなかった。目の前のその生き物は、これまでに見たことのある大型の生き物のどれとも違っていたのだ。しかし、自身の身に危険が迫っていることは明確だった。野生の本能が、自らにそう告げていたのだ。
牙をむき出して必死に唸っていると、その影は口を開いた。
風の音の合間にどっしりと低く響く、静かな声だった。
「オオカミか……まだ若いな。群れからはぐれたのか」
「!」
彼は息をのんだ。一匹のオオカミの身に、その言葉は鋭く突き刺さる。
(違う、はぐれたんじゃない、俺から離れたんだ!)
オオカミはそう叫ぶように、歯茎をむき出して、より激しく唸った。しかし、巨大な相手は怯むどころか、一切の動く様子すら見せなかった。
びゅう、と鋭い音を立てて風向きが変わる。一瞬の向かい風に巨大な怪物の匂いが乗って、オオカミの鼻まで届いた。つんとするほど冷たい空気に混じったわずかな匂いを、彼の鼻は正確に嗅ぎとった。
(なんだこれ、変な匂いだ。鹿でもあるし、熊でも、オオカミでもある……それから、焼けた木みたいな。他にも色々混ざってる。こんなの、どこでも嗅いだことない)
オオカミがそうして考える数秒の間に、怪物はゆっくりと踵を返していた。
「……ふん、可哀想にな」
そう吐き捨てて、それは億劫そうにのそのそと元来たほうへ歩き出す。強風の中を何でもないように進んで、その影は段々と吹雪の中にのまれゆく。白い地面に残された、トナカイに似た幅の広い蹄の足跡も、あっという間に風にかき消され始めた。
(あいつ、俺を食う気じゃないのか)
オオカミはどこか呆然としながら、遠ざかるその後ろ姿を見つめていた。
自分を襲うどころか、哀れむ言葉すらかけていった謎の生き物。あれが一体何者なのか、それはオオカミにはてんで分からなかったが、ただひとつ明らかなことがあった。
(……このままここにいても、凍え死ぬか飢え死ぬか、どちらかだ。もしあいつが俺を食うような奴じゃないなら、あいつについていけば、あるいは――)
オオカミは肺にひとつ冷たい空気を入れると、バウッとひと声あげた。
それでも怪物は立ち止まる様子がない。彼は全身のわずかな力を振り絞り、巨大な相手に飛びかかった。
ちょうど尻尾のように垂れ下がった部分に噛みついたその瞬間、オオカミは強い違和感を覚えた。中身がないのだ。そこには生き物としての温度も、骨や肉の質感もなかった。
「……変なオオカミだな。鼻が利かないのか? これはお前の仲間の毛皮だぞ」
巨大な怪物はそう言ってオオカミの首根っこを掴み、顔の前まで持ち上げた。
(たっ、高い!)
脚が宙に浮き、瞬間的に地面が遠ざかる。辺りの低木よりずっと高い位置まで一瞬で持ち上げられたのだ。その恐怖に、オオカミは反射的に脚をすくめて体を丸くした。
あまりの恐ろしさに、抵抗する勇気もなかった。それに、こんな高さから投げ落とされたりでもしたら、ただでは済まないだろう。怪物の意図は分からなかったが、無事に下ろしてもらうのが先決だ。
「キャン……キューン……」
下ろしてくださいと言わんばかりに、耳を伏せ、上目遣いでその顔を見る。
よく見れば、その毛むくじゃらの怪物の顔には毛がなく、上半分は黒っぽくて硬いものに覆われていた。目がどこかすらよく分からない。少なくとも、オオカミやトナカイのような長い顔ではなく、それどころか熊よりも平たい奇妙な顔であることは分かった。
それはまた数秒の間黙っていたが、やがて口をわずかに開いて、ゆっくり息を吐いた。
「……吹雪が止むまでだぞ」
オオカミの視界が明るかったのは、そこまでだった。一瞬のうちに、オオカミは狭くて暗い場所に押し込められた。怪物は彼を、自分の毛皮の中に入れたのだ。
すぐにわずかな縦揺れが始まり、怪物が歩き始めたのが分かった。
狭い隙間に乱雑に詰め込まれたオオカミは、何が起きたのか分からずに、手足をばたつかせて滅茶苦茶に声をあげた。暗闇の中、あの奇妙な匂いが鼻いっぱいにつく。
怪物は低くぴしゃりと言い放った。
「黙れ。捨て置いてもいいんだぞ」
その言葉に、オオカミはひとつ小さく鳴いて、暴れるのをやめた。
動くのをやめると、体はすぐに疲労を思い出したようだった。足先の冷えがじわじわとほどけ、波のような眠気が襲いかかってくる。狭い暗闇は暖かく、一定のリズムで揺れる。外の吹雪の音はにぶく聞こえ、もはや別世界のもののようだった。
こんなところで、寝てはいけない。
そう思う間もなく、彼はゆらゆらと意識を落としていった。
畳む
2025年12月27日(土)
〔88日前〕
文字
#知恵の劇場 単発小説
芸術館のロージィ(パフォーマンスアーティスト)とアンナ(建築家のウミウシ人魚)の話。
芸術館展示室内における未申請パフォーマンス記録
「あ、ロージィじゃないか」
アンナは目の端に同僚の後ろ姿をとらえ、その名前を呼んだ。返事はない。静寂のなかで、ただ静かに佇むマゼンタの背中があるだけだった。
(ふん。普段はあんなにやかましいってのに、このボクの挨拶は無視かよ)
アンナは口角を下げてむっとした。自分を無視するその顔を見てやろうと、ウミウシ人魚の身体を押し込めた小型水槽を操作して、ロージィの前方に回り込む。その顔を覗き込んで、彼は少しぎょっとした。
ロージィの視線は芸術館ホールの端の白い壁をただ見つめ、その口は静かな真一文字に閉じられていた。いつだってにこやかに笑って機嫌よく返事をする、あの陽気な人物とは同じに思えないほど、その表情は無機質だった。赤い視線は冷たく、ぴくりとも動かない。その手には、一輪の薔薇が握られていた。真っ赤だったであろう薔薇はすでに新鮮さを失い始めていて、くすんだ花びらにも張りがない。
「……なんだぁ、こいつ。おーい」
アンナはその顔の前に手を振ってみたり、前髪をいじったりしてみるが、相手は一切の反応を返さない。視線は不気味なほど動じず、白い壁の一点を見つめたままだ。
(変なやつ。暇なのかは分からないが、いつも以上に話にならなさそうだな)
人魚は呆れたように溜め息をつき、彼の顔から目を離した。その視線は何気なく、相手の手に握られている薔薇の花に映る。
その視界に映ったものに対して、アンナは眉をしかめた。よく見れば、薔薇の棘がロージィの指から血を流していたのだ。緑色の三角の棘は彼の褐色の指先に食い込み、そこからわずかな血が細く垂れている。黒っぽく乾いた跡の上に、新しい血が流れて、それをゆっくりと繰り返して、手首に細く赤い汚れを作っている。垂れた血は袖に少し染み付いて滲み、それすら褐色に乾きはじめていた。
(こいつ、一体いつからこうしているんだ?)
ウミウシの彼にとって、陸上生物のぬるく赤い血は、どこか未知な不快さをもっていた。ここの美しい大理石の床にこんなものを垂らされたら気分が悪い。そう思って、アンナはロージィの手に握られていた薔薇の花に手をかけた。
「貴様、これ――」
その時、一枚の花弁が落ちた。
薄く皴の入った、やわらかく生気のない赤い欠片が、白くひかる床に落ちる。
花弁が床についたその瞬間、ロージィはようやく白い壁から視線を外し、人魚にゆっくりと顔を向けた。
「やあ。こんにちは、アンナ君」
それはいつもの彼から口に出るようなものではなかった。声色も名前の呼び方も表情も、まるで別人のようだった。そこには跳ねる声色もカタコトの口調もおかしなイントネーションもなく、これまでに見たことのない穏やかさだけがあった。いつものあの、話の通じないほどの陽気さを知っている身からすれば、彼のこの態度はよっぽど異質で、いっそ不気味ですらある。
人魚はその別人のような挨拶に、驚きのあまり口をぽかんと開けて数秒固まった。
「こんにちは、アンナ君。君が展示室にいるのは珍しいね?」
ロージィは、丁寧な挨拶を繰り返し、落ち着き払った様子でそう言った。アンナは戸惑いつつ答える。
「……あ、ああ。たまにはここの内装を、見ようと思ってね」
「なるほど、それは良い。図面上での認識と実際に見るのとでは違いそうだものね。流石、かの有名な建築士アンナだ」
(こいつと話が通じるのが、こんなに不気味だとはな。いつものほうが何倍かましかもしれない)
違和感のある会話に対して、アンナは心の中で悪態をついた。それから、気になっていたことをようやく訊ねた。
「ロージィ、キミはこんなところで何をしている?」
「薔薇を持って、立っているよ」
薄く微笑んだまま、当人はただそれだけを答えた。
「そんなことは見ればわかる。ボクは、それに何の意味があるのかと聞いているんだ」
「意味は、ある場合にはあるし、ない場合にはない。僕は薔薇を持ってここに立っているが、それの意味はそれ自体にない」
この意味不明な返答にアンナは頭をかきむしりたくなったが、人魚文化における最低限の礼儀として、それを我慢した。ロージィは相変わらずの平穏さと笑みでもって、アンナの顔を見つめている。
(普段と人が違うからと言って、わけが分からないことに変わりはないんだな。話すだけ無駄だったか)
現実主義の建築家はそう結論付けて、その場を去ろうと自分の水槽を操作した。
その振動が影響したのか定かではないが、ロージィの手元の薔薇がわずかに揺れ、その拍子にまた花弁がひとつ床に落ちる。
アンナが、あ、と口に出したその瞬間、ロージィはその靴底でひとつめの花弁を踏み潰した。
踵でひねるように力強く押しつぶす。靴の底から、わずかに赤い汁が滲んだ。
ロージィは、ゆっくりと顔を上げる。目をまん丸く開けたままのアンナのほうを向き、口を開いた。
「何か?」
「……えっ」
「さっき、あ、と言ったから」
薄っすらとした笑みとともに投げられたその問いかけに、アンナは戸惑いつつ答える。
「薔薇好きなのに、なんで踏みつぶしたんだって思って……。それに何より、床が汚れる」
ロージィはその理由を聞いて満足そうにひとつ頷いた。手元の薔薇がその拍子にわずかに揺れる。三枚目の花弁が落ちる。二枚目の花弁が踏みつぶされる。指先から新しい血の雫が垂れて、床の上で赤い薔薇の色と混じり合う。四枚目の花弁が落ち、三枚目の花弁が潰され、床の赤を濃くしていく……。
――まともな話こそ通じないものの、平和主義で楽観的で、あらゆる美を肯定する――そんな普段の彼からはずいぶんとかけはなれた破壊性をもったその行為を前にして、アンナは何も言えずに、見ていることしかできなかった。
しかし、足元を見下ろし、赤い痕跡を広げるように擦るロージィの表情は、変わらずにずっと穏やかな微笑みのままだった。
「ロージィ君、まだいたのかい」
後ろからチーフの声が聞こえて、アンナはようやくその景色からはっと意識を引き戻された。
「……アラスチーフ。こいつは一体何をしているんですか」
「おそらくだけど、彼のパフォーマンスだよ」
建築士の純粋な疑問に、ようやく一般的な見解が返された。上司はどこか納得するように頷き、続けた。
「芸術のひとつさ。昨日の夕方からずっと壁に向かっていたが、動きがあったんだね」
「昨日の夕方だって!? もう丸一日じゃないか!」
アンナは驚きの声をあげた。なるほど、それで納得がいった。薔薇が萎れていたのも、ロージィの手から流れた血がもう何度も乾いていたのも、その時間によるものだったのだ。
一日中薔薇を握りしめ、それが萎れるのを待って、ようやく落ちたその花弁を踏みにじる。これが前衛芸術だというのなら、何も分からないな、と呆れるような気持ちになった。だが、ここは芸術館である。何人も、他者の芸術を制限する筋合いはない。
「……後で掃除しておけよ」
アンナの言葉に、ロージィは花びらからわずかに顔を上げる。彼はその微笑みを一辺も崩さず、静かに同僚に向けた。
畳む
芸術館のロージィ(パフォーマンスアーティスト)とアンナ(建築家のウミウシ人魚)の話。
芸術館展示室内における未申請パフォーマンス記録
「あ、ロージィじゃないか」
アンナは目の端に同僚の後ろ姿をとらえ、その名前を呼んだ。返事はない。静寂のなかで、ただ静かに佇むマゼンタの背中があるだけだった。
(ふん。普段はあんなにやかましいってのに、このボクの挨拶は無視かよ)
アンナは口角を下げてむっとした。自分を無視するその顔を見てやろうと、ウミウシ人魚の身体を押し込めた小型水槽を操作して、ロージィの前方に回り込む。その顔を覗き込んで、彼は少しぎょっとした。
ロージィの視線は芸術館ホールの端の白い壁をただ見つめ、その口は静かな真一文字に閉じられていた。いつだってにこやかに笑って機嫌よく返事をする、あの陽気な人物とは同じに思えないほど、その表情は無機質だった。赤い視線は冷たく、ぴくりとも動かない。その手には、一輪の薔薇が握られていた。真っ赤だったであろう薔薇はすでに新鮮さを失い始めていて、くすんだ花びらにも張りがない。
「……なんだぁ、こいつ。おーい」
アンナはその顔の前に手を振ってみたり、前髪をいじったりしてみるが、相手は一切の反応を返さない。視線は不気味なほど動じず、白い壁の一点を見つめたままだ。
(変なやつ。暇なのかは分からないが、いつも以上に話にならなさそうだな)
人魚は呆れたように溜め息をつき、彼の顔から目を離した。その視線は何気なく、相手の手に握られている薔薇の花に映る。
その視界に映ったものに対して、アンナは眉をしかめた。よく見れば、薔薇の棘がロージィの指から血を流していたのだ。緑色の三角の棘は彼の褐色の指先に食い込み、そこからわずかな血が細く垂れている。黒っぽく乾いた跡の上に、新しい血が流れて、それをゆっくりと繰り返して、手首に細く赤い汚れを作っている。垂れた血は袖に少し染み付いて滲み、それすら褐色に乾きはじめていた。
(こいつ、一体いつからこうしているんだ?)
ウミウシの彼にとって、陸上生物のぬるく赤い血は、どこか未知な不快さをもっていた。ここの美しい大理石の床にこんなものを垂らされたら気分が悪い。そう思って、アンナはロージィの手に握られていた薔薇の花に手をかけた。
「貴様、これ――」
その時、一枚の花弁が落ちた。
薄く皴の入った、やわらかく生気のない赤い欠片が、白くひかる床に落ちる。
花弁が床についたその瞬間、ロージィはようやく白い壁から視線を外し、人魚にゆっくりと顔を向けた。
「やあ。こんにちは、アンナ君」
それはいつもの彼から口に出るようなものではなかった。声色も名前の呼び方も表情も、まるで別人のようだった。そこには跳ねる声色もカタコトの口調もおかしなイントネーションもなく、これまでに見たことのない穏やかさだけがあった。いつものあの、話の通じないほどの陽気さを知っている身からすれば、彼のこの態度はよっぽど異質で、いっそ不気味ですらある。
人魚はその別人のような挨拶に、驚きのあまり口をぽかんと開けて数秒固まった。
「こんにちは、アンナ君。君が展示室にいるのは珍しいね?」
ロージィは、丁寧な挨拶を繰り返し、落ち着き払った様子でそう言った。アンナは戸惑いつつ答える。
「……あ、ああ。たまにはここの内装を、見ようと思ってね」
「なるほど、それは良い。図面上での認識と実際に見るのとでは違いそうだものね。流石、かの有名な建築士アンナだ」
(こいつと話が通じるのが、こんなに不気味だとはな。いつものほうが何倍かましかもしれない)
違和感のある会話に対して、アンナは心の中で悪態をついた。それから、気になっていたことをようやく訊ねた。
「ロージィ、キミはこんなところで何をしている?」
「薔薇を持って、立っているよ」
薄く微笑んだまま、当人はただそれだけを答えた。
「そんなことは見ればわかる。ボクは、それに何の意味があるのかと聞いているんだ」
「意味は、ある場合にはあるし、ない場合にはない。僕は薔薇を持ってここに立っているが、それの意味はそれ自体にない」
この意味不明な返答にアンナは頭をかきむしりたくなったが、人魚文化における最低限の礼儀として、それを我慢した。ロージィは相変わらずの平穏さと笑みでもって、アンナの顔を見つめている。
(普段と人が違うからと言って、わけが分からないことに変わりはないんだな。話すだけ無駄だったか)
現実主義の建築家はそう結論付けて、その場を去ろうと自分の水槽を操作した。
その振動が影響したのか定かではないが、ロージィの手元の薔薇がわずかに揺れ、その拍子にまた花弁がひとつ床に落ちる。
アンナが、あ、と口に出したその瞬間、ロージィはその靴底でひとつめの花弁を踏み潰した。
踵でひねるように力強く押しつぶす。靴の底から、わずかに赤い汁が滲んだ。
ロージィは、ゆっくりと顔を上げる。目をまん丸く開けたままのアンナのほうを向き、口を開いた。
「何か?」
「……えっ」
「さっき、あ、と言ったから」
薄っすらとした笑みとともに投げられたその問いかけに、アンナは戸惑いつつ答える。
「薔薇好きなのに、なんで踏みつぶしたんだって思って……。それに何より、床が汚れる」
ロージィはその理由を聞いて満足そうにひとつ頷いた。手元の薔薇がその拍子にわずかに揺れる。三枚目の花弁が落ちる。二枚目の花弁が踏みつぶされる。指先から新しい血の雫が垂れて、床の上で赤い薔薇の色と混じり合う。四枚目の花弁が落ち、三枚目の花弁が潰され、床の赤を濃くしていく……。
――まともな話こそ通じないものの、平和主義で楽観的で、あらゆる美を肯定する――そんな普段の彼からはずいぶんとかけはなれた破壊性をもったその行為を前にして、アンナは何も言えずに、見ていることしかできなかった。
しかし、足元を見下ろし、赤い痕跡を広げるように擦るロージィの表情は、変わらずにずっと穏やかな微笑みのままだった。
「ロージィ君、まだいたのかい」
後ろからチーフの声が聞こえて、アンナはようやくその景色からはっと意識を引き戻された。
「……アラスチーフ。こいつは一体何をしているんですか」
「おそらくだけど、彼のパフォーマンスだよ」
建築士の純粋な疑問に、ようやく一般的な見解が返された。上司はどこか納得するように頷き、続けた。
「芸術のひとつさ。昨日の夕方からずっと壁に向かっていたが、動きがあったんだね」
「昨日の夕方だって!? もう丸一日じゃないか!」
アンナは驚きの声をあげた。なるほど、それで納得がいった。薔薇が萎れていたのも、ロージィの手から流れた血がもう何度も乾いていたのも、その時間によるものだったのだ。
一日中薔薇を握りしめ、それが萎れるのを待って、ようやく落ちたその花弁を踏みにじる。これが前衛芸術だというのなら、何も分からないな、と呆れるような気持ちになった。だが、ここは芸術館である。何人も、他者の芸術を制限する筋合いはない。
「……後で掃除しておけよ」
アンナの言葉に、ロージィは花びらからわずかに顔を上げる。彼はその微笑みを一辺も崩さず、静かに同僚に向けた。
畳む
2025年12月18日(木)
〔97日前〕
文字
#海底二万里 #FA
第二部1章あたりの時系列の話。捏造二次創作掌編です。
※原作本編のみ通過、神秘の島は未読。
悪夢を見た。
周囲を埋め尽くす銃声、悲鳴、怒号、倒れゆく人々。目の端に映る赤いものが火花か血か、もうよく分からない。遠くに見える軍人。人を人とも思わない残虐な行為がただただ繰り返されていた。何のためにこんなことが起こっているのだろうか。
その光景にわたしは跳ね起きた。息は浅く跳ね、ひどい汗をかいている。起こした体を支える腕は震えていた。しかしそれでも、わたしの脳はその景色を反芻することを止めようとはしない。
言いようのない気分の悪さが胸元にこみあげた。船酔い? まさか。
静かにベッドから出て、その縁へ腰かける。冷汗は額も首元もじっとりと濡らし、あれがただの悪夢ではないことを自覚させる。そう、あれは夢ではないのだ。水面に浮かび上がる泡のように、奥底からまっすぐ蘇ってくるそれは、紛れもなくわたしの記憶だ。
こんな景色を誰が見せている?
わたし自身か、復讐の名を冠した怪物なのか。
わたしは汗を拭き、軽く着替えて、その簡素な船長室を出た。
時間は早朝にあたる。船は静かな音を立て、水面下四十から五十メートルのところを西北西に向かっていた。ジャワの沖にそって進むその行き先は、セイロンである。
大広間にはひとりの学者がいた。標本の入ったケースに顔を近づけていて、わたしに気付いた様子はない。
わたしはさっきまでの悪夢の余韻を頭から振り払い、息をしずかに整え、彼の言語で話しかけた。
「ずいぶん早いですね、アロナックスさん?」
「船長」
その学者は、はっとわたしを見て、いつもの穏やかさで応えた。彼の手には畳まれた海図があった。海中を見ることのできる窓は閉めていたから、おおかたここが海洋のどこか調べたうえで、この辺りにいる魚種の標本を鑑賞していたのだろう。
彼にあの船員を診てもらってから――あのサンゴの墓地を見せてから、何日か経過していた。
アロナックス先生は、特に何も言おうとしなかった。それは、気になることがあるがそれを聞くのは今ではないと、わたしが口を開くのを待つような様子だ。彼はいつもそうだった。彼はわたしを学者の友としてみて、この海中旅行をあの助手と堪能する一方で、あの気の短い仲間のことを想っている。立派なものだ。しかし、わたしが彼の心配事をわざわざ気に留める義務はない。
それでも、今のわたしは彼に礼をする筋合いがあった。
「先生、先日はどうも」
「先日というと、亡くなった彼のことでしょうか」
わたしは静かに頷いた。先生は神妙に目を伏せて
「お気の毒に」
といった。
彼は、あの船員の怪我の理由を聞くことはもうしなかった。わたしが答えないことを、分かっているらしかった。
彼の認識はその通りで、わたしは、わたしの目的を彼に明らかにするつもりは一切なかった。それは無意味なことだからだ。彼は海洋生物学者として素晴らしい人物だが、その事実はわたしの信念の僅かすら変える理由になり得ない。わたしと、ノーチラス号の船員である仲間の間にどれだけの絆があるかもまた、彼が知る必要はなかった。
わたしは彼の隣に立って、黙ってその視線の先にある標本に目をやった。
「ネモ船長」
と彼は口を開いた。
「この世界で最も大きなサメはウバザメですね。シャルル・ルシュールがゾウのようなサメとして記載をしていました。ここにはあらゆる魚種の標本がありますが、それほど大きなものは、さすがのあなたでも流石に難しいのでしょう」
わたしは彼の言葉を受け止め、それから微笑んで答えた。
「いいえ、先生。剥製こそありませんが、もっと大きなサメがいますよ。それもこのインド洋にね」
「なんですって!」
彼は声をあげ、信じられないといった風にこちらを見た。わたしは、本当ですよ、と頷いてみせる。
「ヒゲクジラのように食事をする、まだら模様のサメがいるのです。見た目はクジラによく似ていますが、尾びれが縦になっているのでサメの仲間だと分かるのです。クジラザメと呼んでも差し支えないでしょう。彼らは水温の高い海域にしかいませんから、きっと陸地の研究者がその生きているのを見るのは、ずっと後になるでしょうね。でも私は確かに見たことがあるのですよ」
わたしは過去に何度も訪れたこの海で見た、その生き物のことを思い出しながら、そう説明した。ブルーサファイアのように明るく美しい赤道近くの海を泳ぎ、大勢のコバンザメを引き連れて泳ぐ、雄大で灰色の、善良なるかの生き物。あの姿を初めて目にした時のことは忘れまい。
「そう、血を流さないサメが、この海には存在しているのですよ……」
陸地に足をとらわれただ血を流す愚かな存在とは違う生き方が、海にはある。わたしは彼らが知らない海を知っているのだ。わたしはもう、彼らとは違う。最期のその時までこの海にいることを誓ったのだ。
わたしはこれまでにサンゴの墓に眠りについた船員たちのことを思い浮かべながら、標本のケースに手を添えて、じっと静かに目を瞑る。
学者の視線が静かに向けられているのを、わたしは黙って感じていた。
畳む
・ネモの出身地はあえて出していない
・1820年代以降にウバザメが記載されている
・1868年ごろにジンベエザメが記載されている(原作は1866~68の話)
あと、あくまでネモの人間っぽさ・傲慢さや、海底二万里にみられる当時の動物観も含めて好きなのでそのへんを考慮しています。
畳む
第二部1章あたりの時系列の話。捏造二次創作掌編です。
※原作本編のみ通過、神秘の島は未読。
悪夢を見た。
周囲を埋め尽くす銃声、悲鳴、怒号、倒れゆく人々。目の端に映る赤いものが火花か血か、もうよく分からない。遠くに見える軍人。人を人とも思わない残虐な行為がただただ繰り返されていた。何のためにこんなことが起こっているのだろうか。
その光景にわたしは跳ね起きた。息は浅く跳ね、ひどい汗をかいている。起こした体を支える腕は震えていた。しかしそれでも、わたしの脳はその景色を反芻することを止めようとはしない。
言いようのない気分の悪さが胸元にこみあげた。船酔い? まさか。
静かにベッドから出て、その縁へ腰かける。冷汗は額も首元もじっとりと濡らし、あれがただの悪夢ではないことを自覚させる。そう、あれは夢ではないのだ。水面に浮かび上がる泡のように、奥底からまっすぐ蘇ってくるそれは、紛れもなくわたしの記憶だ。
こんな景色を誰が見せている?
わたし自身か、復讐の名を冠した怪物なのか。
わたしは汗を拭き、軽く着替えて、その簡素な船長室を出た。
時間は早朝にあたる。船は静かな音を立て、水面下四十から五十メートルのところを西北西に向かっていた。ジャワの沖にそって進むその行き先は、セイロンである。
大広間にはひとりの学者がいた。標本の入ったケースに顔を近づけていて、わたしに気付いた様子はない。
わたしはさっきまでの悪夢の余韻を頭から振り払い、息をしずかに整え、彼の言語で話しかけた。
「ずいぶん早いですね、アロナックスさん?」
「船長」
その学者は、はっとわたしを見て、いつもの穏やかさで応えた。彼の手には畳まれた海図があった。海中を見ることのできる窓は閉めていたから、おおかたここが海洋のどこか調べたうえで、この辺りにいる魚種の標本を鑑賞していたのだろう。
彼にあの船員を診てもらってから――あのサンゴの墓地を見せてから、何日か経過していた。
アロナックス先生は、特に何も言おうとしなかった。それは、気になることがあるがそれを聞くのは今ではないと、わたしが口を開くのを待つような様子だ。彼はいつもそうだった。彼はわたしを学者の友としてみて、この海中旅行をあの助手と堪能する一方で、あの気の短い仲間のことを想っている。立派なものだ。しかし、わたしが彼の心配事をわざわざ気に留める義務はない。
それでも、今のわたしは彼に礼をする筋合いがあった。
「先生、先日はどうも」
「先日というと、亡くなった彼のことでしょうか」
わたしは静かに頷いた。先生は神妙に目を伏せて
「お気の毒に」
といった。
彼は、あの船員の怪我の理由を聞くことはもうしなかった。わたしが答えないことを、分かっているらしかった。
彼の認識はその通りで、わたしは、わたしの目的を彼に明らかにするつもりは一切なかった。それは無意味なことだからだ。彼は海洋生物学者として素晴らしい人物だが、その事実はわたしの信念の僅かすら変える理由になり得ない。わたしと、ノーチラス号の船員である仲間の間にどれだけの絆があるかもまた、彼が知る必要はなかった。
わたしは彼の隣に立って、黙ってその視線の先にある標本に目をやった。
「ネモ船長」
と彼は口を開いた。
「この世界で最も大きなサメはウバザメですね。シャルル・ルシュールがゾウのようなサメとして記載をしていました。ここにはあらゆる魚種の標本がありますが、それほど大きなものは、さすがのあなたでも流石に難しいのでしょう」
わたしは彼の言葉を受け止め、それから微笑んで答えた。
「いいえ、先生。剥製こそありませんが、もっと大きなサメがいますよ。それもこのインド洋にね」
「なんですって!」
彼は声をあげ、信じられないといった風にこちらを見た。わたしは、本当ですよ、と頷いてみせる。
「ヒゲクジラのように食事をする、まだら模様のサメがいるのです。見た目はクジラによく似ていますが、尾びれが縦になっているのでサメの仲間だと分かるのです。クジラザメと呼んでも差し支えないでしょう。彼らは水温の高い海域にしかいませんから、きっと陸地の研究者がその生きているのを見るのは、ずっと後になるでしょうね。でも私は確かに見たことがあるのですよ」
わたしは過去に何度も訪れたこの海で見た、その生き物のことを思い出しながら、そう説明した。ブルーサファイアのように明るく美しい赤道近くの海を泳ぎ、大勢のコバンザメを引き連れて泳ぐ、雄大で灰色の、善良なるかの生き物。あの姿を初めて目にした時のことは忘れまい。
「そう、血を流さないサメが、この海には存在しているのですよ……」
陸地に足をとらわれただ血を流す愚かな存在とは違う生き方が、海にはある。わたしは彼らが知らない海を知っているのだ。わたしはもう、彼らとは違う。最期のその時までこの海にいることを誓ったのだ。
わたしはこれまでにサンゴの墓に眠りについた船員たちのことを思い浮かべながら、標本のケースに手を添えて、じっと静かに目を瞑る。
学者の視線が静かに向けられているのを、わたしは黙って感じていた。
畳む
・ネモの出身地はあえて出していない
・1820年代以降にウバザメが記載されている
・1868年ごろにジンベエザメが記載されている(原作は1866~68の話)
あと、あくまでネモの人間っぽさ・傲慢さや、海底二万里にみられる当時の動物観も含めて好きなのでそのへんを考慮しています。
畳む
#知恵の劇場 単発小説
圭宿と小さな来館者の話。
星海蹄類ソラウミウシの幼獣保護および一時飼養報告書
「これは、一体?」
圭宿は片眼鏡をくいと指の甲で上げて訊ねた。普段の落ち着いた調子の中に、わずかに困惑が混ざっている。
背の低いウサギの中年は、細い目をさらににっこりと細くして答える。
「宇宙海牛の赤ん坊じゃよ」
「いやねえハッブル君、それは判りますよ。あたしは宇宙生物には明るくありませんが、これは文献で知っていますし、館内に標本だってあるんですから」
ソラウミウシ、あるいはウチュウウミウシ。それは、圭宿の元々知るウミウシという生物とは全く違った見た目をしていた。牛に似た前半身に、ひらひらとなびく不定形な下半身。淡い紫と白のまだら模様に染まった体は、短い毛並みに覆われている。
大人になれば大型犬ほどの大きさになる生物だが、今ここにいる個体は圭宿の片腕の中にすっぽり収まるほどしかなかった。顔つきは幼く、まだ橙色の角すら生えきっていない。きょとんとした様子で、彼の腕の中に抱えられている。
「あたしが聞きたいのは、これの生きた幼獣なんてものがなぜここにいるのか、ってことなんです」
私用で出掛けた学芸員がつい標本を持ち帰るなんてことは、この博物館では良くあるものだ。
この天文学館で見るものといえば、岩石の欠片や宇宙を漂う魔法塵、既に死んだ生物の痕跡、新しいデータなどがほとんどである。しかし、生きたままの宇宙生物の子どもを持って帰る例など、彼がサブチーフを勤めるなかで、これまで一度も見たことがなかった。
ハッブルは、それがなあ、と白い毛並みの頭を掻いて話し始めた。
「つい昨日、休暇をとって星海域でヨットに乗ってたんじゃよ」
「……はあ」
「この海牛たちは大規模な群れで移動しながら暮らす性質があるんじゃが、どうやらこの子は渡りに乗り遅れたようでな。わしの宇宙船に突然飛び込んできたんじゃ。そのまま置いてきても良かったんじゃが、やはり可哀想でな……」
そうしてくるんと巻いた口髭をいじりながら、眉を下げて悩ましげに言ったかと思うと、彼はにわかに声を明るくした。
「そこで水流を調べてみたところ、その群れは半月後に来る星流嵐に乗って再び戻ってくるタイミングがあるようなんじゃ! じゃから、それに合わせて群れに返してやろうと思ったんじゃよ」
ハッブルは顎に手を当てて、うんうんと納得するように頷く。
「なるほど。それは分かりました。ですがあなたねえ、先程あたしに、この子の面倒を頼むとおっしゃいましたね?」
「うむ。連れて帰ったは良いんじゃが、丁度このあと二週間ほど、兼任している科学技術館の件で手一杯になるのを忘れていたんじゃ。科学技に海牛の赤ん坊を連れていくのは、そのー……ちょっと危ないじゃろ」
「まあ、そうかもしれませんねえ」
圭宿は他の館の様子に記憶を巡らせた。あの館がとりわけ危ないということはないが、機械いじりが好きな者がやたら多い空間だ。確かに小さな生き物の面倒を見るには向いていない。
「それでもなんであたしが――」
その時、ぐい、と顔の横に垂らした三つ編みが下に引っ張られる。彼は視線をそっと腕の中に向けた。
海牛はキュウキュウと小さく鳴いて、辺りをきょろきょろと見回している。前足の蹄が、彼が垂らした三つ編みの髪に引っ掛かって動けなくなっているようだ。細い足をそっと持ち上げて、外してやる。
海牛は悩ましげな圭宿の顔を見上げてもう一度、キュウ、と鳴いた。
目を伏せ、小さくため息を吐き出す。
「まあ、ここで幼子の面倒を見慣れているのはあたしくらいですか。……ハッブル君、後でこの子の食事やら何やらの情報をまとめて送ってくださいな。そしたら出来る限りのことはしましょう」
ハッブルはその言葉に細い目を輝かせて、その場でぴょんぴょんと跳ねながら礼をした。
「おお~っ! ありがとう、ありがとう! 圭宿どのならきっと上手くやってくれるに違いない! いや、この子は圭宿どのの知る哺乳類に比べれば手はかからないはずじゃ。すぐに資料をまとめておこう!」
ではな! と景気の良い挨拶を残し、ウサギはぴょんぴょんと跳ねながら場を後にした。静かになった研究室に残された圭宿は、腕の中の海牛と顔を見合わせる。
「全く、あたしが断わらないのを分かってたんでしょうねえ」
海牛はじっと黙って、黒く丸い目で顔を見上げる。圭宿は両腕でそっと抱き抱えなおし、ゆったりと体を揺らしはじめた。まるで人の赤ん坊をあやすような手つきだ。
頬を緩め、腕の中にそっと語り掛ける。
「そら、あなたも聞いてましたね? 二週間かそこらの辛抱ですよ。すぐに仲間に会えますからね」
「キュウ」
あたたかな口調に、海牛はひとつ返事をした。
海牛は手のかからない生き物だった。
とはいえそれは、ここにいるチーフのもとにいるやんちゃな子竜や、プラネタリウムにいる荒くれケートスと比較すれば、の話ではあったが。
この幼い海牛は腹を空かせた時以外はごく静かでじっとしている。ただ一つの問題は、驚くほどすぐに腹を空かせてしまうのである。
いったん腹が減ると、この生き物は黙ってあちこちを動き回り、口に入りそうなものを片っ端から口に入れ、舐めていく。おそらく幼獣の本能的なものなのだろう。
別の館に連れていけないというハッブルの言い分も今では良く理解できたし、この研究室が普段から散らかっていないことに、心の底から安心した。
彼はハッブルが用意した食事――宇宙海洋に生える苔や藻類の一種らしい――を一日に三、四度食べさせて、それ以外の時間は海牛が勝手に歩き回らないよう見張る、という仕事を余儀なくされた。
「圭宿さん……その、何か、手伝えることは、ある?」
小さな上司が柔らかな金髪をふわりと傾け、心配そうに声を掛けた。圭宿は研究室の机でとある暦の図を睨み付け、その正確性における違和感の正体を突き止めようとしていたところだった。
「おやステラ君。ありがとうございます。今は――」
大丈夫ですよ、と答えようとしたところで、椅子の横に重ねておいたストールにちらりと目をやる。さっきまでそこに眠っていたはずの海牛の姿はなく、ストールの中央には凹みだけが残されていた。
当の小さな本人は、目の前のステラの腕に抱き抱えられ、柔らかな素材でできたおもちゃを機嫌良さそうに噛んでいた。
状況を理解し、眉間を押さえて立ち上がる。
「ああ、すみません。あたしったら、この子が起きたのに気付かず。捕まえてくだすって、ありがとうございます」
礼をして、その子を受けとりますよ、という風に両手を伸ばす。ステラはほんの僅かに視線を泳がせた。ええと、と少し言葉に迷いつつ、いつものように控えめに口を開く。
「よければ、少しの間、この子を……見てましょうか。多分、大丈夫。このおもちゃも、アポロンが使ってたものなの」
ステラの斜め後ろに控えていた子竜のアポロンは得意気にフンと鼻を鳴らした。まるで、この新入りのちびすけに譲ってやったんだぞ、と自慢するかのように。
圭宿はステラの珍しい言動に少しの驚きを覚えたのち、ふむ、と顎に手を当てる。
(本来あたしへの頼まれ事ではありましたが、これは彼女の経験にもなるでしょう)
そう考えて、ゆったりと金の瞳を細めて頷いた。
「ありがとうございます。それじゃ、今からこの子の食事を手伝ってくれますか」
少女がぱちくりと瞬きをする。
「……その、お仕事は?」
ステラは心配そうに、彼の手元の資料に視線をやった。複雑な図形や計算がいくつも書かれた書類に、圭宿は肩をすくめる。
「ああ、これですか。この作業は急ぎではないんですが、面倒で煮詰まってまして。……恥ずかしながら、それで海牛が起きたのに気付かなかったんです。だからあたしも少し気晴らしがしたいところなんですよ」
その言葉にステラの顔がわずかにほころび、頷いた。
「分かりました」
乾燥した苔のようなものにほんの少しの水をかけると、すぐに繊維質にほどけて、緑色の細かい網のように広がった。海藻とは違う特有の匂いが辺りに漂う。圭宿はそれをスプーンでほぐしながら、少しずつ水を足して固さを調整する。
手伝いを頼まれたというのに任されることが何もないステラは、その手元を見つめ静かに様子を伺っていた。彼女に抱えられた海牛もまた、きょとんとした顔でおもちゃを噛んでいる。
圭宿は給湯室の隅に据えられた長椅子に腰を下ろすと、両腕を伸ばした。
「ステラ君、その子をこちらへくださいな」
少女は小さく頷き、海牛をそっと預ける。そして一瞬の迷いの後、その隣へちょこんと腰掛けた。
圭宿は手慣れた様子で海牛をうつ伏せになるように抱えなおし、顔の下の辺りに布巾を挟み込む。それから
「ハッブル君によれば、この姿勢が正しいんですって。この布巾は……これがないと、この子に服をびしょ濡れにされてしまいますから」
と、軽く笑いながら説明を挟んだ。
圭宿がスプーンを口元へ持っていくと、海牛は鼻を何度か動かした後、夢中でそれを舐めとり始めた。彼は細い目をさらに細め、その様子をじっくりと見つめる。海牛がぺちゃぺちゃと舐める音の合間に、次の一杯を掬うスプーンの固い音が響く以外は、静けさが保たれていた。
そのじっとした空気の中、ステラが口を開いた。
「……圭宿さん、宇宙海牛を見るのは、今回が初めてって」
「ええ、そうですよ。それがどうかしましたか?」
眉を上げる彼に、少女は小さな疑問の理由を言葉にする。
「なんだか、すごく……手慣れてるから」
「ああ。あたしにも子どもがいましたからね、そのおかげでしょう」
さらりと出たその言葉に、ステラは目をまん丸くした。圭宿は顔色一つ変えず、その驚きを受け止めた。
「……知らなかった」
「まあ、言う機会もそうそうありませんから。わざと黙っていたわけじゃありませんよ」
圭宿は海牛の口へスプーンを差し出しながら、静かな微笑みをもって給餌を続ける。海牛は出されたご馳走を味わおうと夢中になって、敷かれた布巾を好き放題に汚していた。
ほんの数秒間、沈黙が流れる。ステラは、良くないことを話題にしてしまったかと不安になり始めたが、それが言葉の輪郭をもち始める直前に、圭宿は口を開いた。
「あの子はあたしと違って、星にまるで興味のない子でしたねえ。むしろ、地面の虫や草に夢中だったんですよ。虫を捕まえるのを何度も手伝わされました。……大きくなっていれば、どんな子に育っていたのか」
彼の瞳は海牛をじっと見ていたが、それは人が懐かしい思い出を語るときの、どこか遠くを見据えるような視線でもあった。
微笑みながら語るその声は決して落ち込みきってはいなかったが、ステラは口をつぐんだ。いつもの青くきらめく視線を伏せて、暗く泳がせる。
それが彼女の利口さからくる沈黙であることを理解し、圭宿は柔らかく言葉を続けた。
「ステラ君は優しいですね。ええ、無理に何か言わなくて構いませんとも」
一匙を平らげた海牛の口元に新しい食事を運び、小さな口がまた忙しく動くのを見守る。
「時間が解決してくれるのを待つしかないんです。星は時には色んなものを連れていってしまいますが、塞ぎ込むばかりでは何にもなりませんから。ただ決して忘れないよう、こうして折に触れてあの子に教えてもらったことを思い出すわけです。――ほら、半分終わりましたよ。同じようにやってみなさいな」
ステラははっとして顔を上げる。
彼の手から海牛を受け取り、そっと抱き抱えなおした。食事の途中で興奮しているのか、さっき持ち上げた時と比べてよく動く。圭宿の抱え方を思い出して同じような体勢にしてやると、海牛はうまく腕の中におさまり、すんと落ち着いた。
圭宿は表情をふっと柔らかくして、餌を掬ったスプーンを手渡す。ステラはまた先ほど見たやり方を思い出して差し出すと、海牛はまるで誰からもらっても同じだと言わんばかりに食事に夢中になった。
よかった、とステラの表情の緊張がわずかに緩む。その横顔を見て、圭宿も微笑んだ。
「ええ、上手いものですよ」
足元で大人しく拗ねているアポロンの背を撫でてやりながら、圭宿は静かに見守る。
海牛の生えかけの角が、機嫌よさそうにぼんやりと光っていた。
ばたばたした足音とともに、ハッブルが圭宿の机へ現れた。珍しく作業用の眼鏡をかけたままで、小脇には書類の束を抱えている。
「圭宿どの、圭宿どの!」
「そんなに大声をあげなくとも聞こえていますよ。どうしたんです?」
作業中の筆を硯に置いて、圭宿は片眼鏡越しの視線を机の向こうに向ける。ハッブルは早口で、一言に言いきった。
「星流嵐が少し早まったようじゃ、その子を帰すのが三日ほど前倒しになる」
それを耳にした彼はいつもの通り落ち着いていたが、その両眉はわずかに上がった。当の本人である海牛は、彼の膝の上でストールに包まれてすやすや眠っている。
「まあ、星海の巡りにはそういうこともあるでしょう。三日早くなるというと、明日の午後には、といったところでしょうか」
「うむ。しかし、わしの船のスピードを考えるともっと早く……そうじゃな、朝のうちには出たいところじゃの」
ハッブルはくるんと巻いたひげをいじりながら言った。
「一旦この書類を置いてきたら、その子を引き取りにまた来るぞい。圭宿どのには本当に面倒をかけたからのう! 少しでも早くその子を引き取ってやろうと思うてな」
ウサギのその言葉に、圭宿はほんの少し黙り込む。
その時、髪がぐんと下に引っ張られた。それはここ一週間と少しの間にすっかり慣れた感覚だった。視線を下げると、案の定、起きた海牛の蹄が彼の三つ編みに引っ掛かっている。
圭宿はその細い脚をそっと持ち上げ、蹄に絡まった髪を解いた。それから、自分のほうを見上げるきょとんとした顔をじっと見つめる。
この小さな身体も、明日にはここの重力と別れを告げるのだ。
彼は金の目を伏せ、小さく首を横に振った。
「いえ、明日の朝まで面倒を見てもいいでしょうか。……ほら、あなたも出航準備があるでしょうから」
ハッブルは意外な返答に、いつもの細い目をまん丸くして二、三秒固まった。それからまたきゅっと笑顔になり、快く頷いて見せた。
いつものように研究書類の束を睨み、じっと黙って考え込む。計算は滞り、筆は進まない。圭宿はもう一時間ほど同じ調子だった。
その時、振り子時計が何度か鳴らした音に、彼はぱっと顔を上げて筆を置いた。
(そろそろあの子が腹を空かせる頃だ。食事の用意をーー)
そこまで考えて、はっとする。もう海牛の食事を用意する必要などないのだった。
圭宿は小さなため息を吐き、背もたれに寄りかかる。
(そうだ。もうあの子の世話のことを考える必要はないんでした)
あの子の世話のことを考える必要はない。
頭の中に浮かぶその言葉は、懐かしく重たい。何年も前、自身に繰り返し言い聞かせた言葉だ。あの頃の感覚は、今でも鮮明に思い起こすことができる。行き場のない寂しさに、呼吸が詰まるような感覚。そして、それを事実だと飲み込むことしか許されない空しさ。
(誰かが居なくなることは、いつだって慣れない……いや、慣れたくなどありませんね)
ふと、顔の横に下げた三つ編みに指をかけ、ほんの少しだけ引っ張ってみる。髪の毛を引っ張りたがる小さな掌と、絡まりがちな小さな蹄が脳裏によぎる。
彼はその懐かしい感覚にそっと目を閉じ、ぽつりと呟いた。
「ええ、忘れませんとも。おちびさん」
畳む

畳む
圭宿と小さな来館者の話。
星海蹄類ソラウミウシの幼獣保護および一時飼養報告書
「これは、一体?」
圭宿は片眼鏡をくいと指の甲で上げて訊ねた。普段の落ち着いた調子の中に、わずかに困惑が混ざっている。
背の低いウサギの中年は、細い目をさらににっこりと細くして答える。
「宇宙海牛の赤ん坊じゃよ」
「いやねえハッブル君、それは判りますよ。あたしは宇宙生物には明るくありませんが、これは文献で知っていますし、館内に標本だってあるんですから」
ソラウミウシ、あるいはウチュウウミウシ。それは、圭宿の元々知るウミウシという生物とは全く違った見た目をしていた。牛に似た前半身に、ひらひらとなびく不定形な下半身。淡い紫と白のまだら模様に染まった体は、短い毛並みに覆われている。
大人になれば大型犬ほどの大きさになる生物だが、今ここにいる個体は圭宿の片腕の中にすっぽり収まるほどしかなかった。顔つきは幼く、まだ橙色の角すら生えきっていない。きょとんとした様子で、彼の腕の中に抱えられている。
「あたしが聞きたいのは、これの生きた幼獣なんてものがなぜここにいるのか、ってことなんです」
私用で出掛けた学芸員がつい標本を持ち帰るなんてことは、この博物館では良くあるものだ。
この天文学館で見るものといえば、岩石の欠片や宇宙を漂う魔法塵、既に死んだ生物の痕跡、新しいデータなどがほとんどである。しかし、生きたままの宇宙生物の子どもを持って帰る例など、彼がサブチーフを勤めるなかで、これまで一度も見たことがなかった。
ハッブルは、それがなあ、と白い毛並みの頭を掻いて話し始めた。
「つい昨日、休暇をとって星海域でヨットに乗ってたんじゃよ」
「……はあ」
「この海牛たちは大規模な群れで移動しながら暮らす性質があるんじゃが、どうやらこの子は渡りに乗り遅れたようでな。わしの宇宙船に突然飛び込んできたんじゃ。そのまま置いてきても良かったんじゃが、やはり可哀想でな……」
そうしてくるんと巻いた口髭をいじりながら、眉を下げて悩ましげに言ったかと思うと、彼はにわかに声を明るくした。
「そこで水流を調べてみたところ、その群れは半月後に来る星流嵐に乗って再び戻ってくるタイミングがあるようなんじゃ! じゃから、それに合わせて群れに返してやろうと思ったんじゃよ」
ハッブルは顎に手を当てて、うんうんと納得するように頷く。
「なるほど。それは分かりました。ですがあなたねえ、先程あたしに、この子の面倒を頼むとおっしゃいましたね?」
「うむ。連れて帰ったは良いんじゃが、丁度このあと二週間ほど、兼任している科学技術館の件で手一杯になるのを忘れていたんじゃ。科学技に海牛の赤ん坊を連れていくのは、そのー……ちょっと危ないじゃろ」
「まあ、そうかもしれませんねえ」
圭宿は他の館の様子に記憶を巡らせた。あの館がとりわけ危ないということはないが、機械いじりが好きな者がやたら多い空間だ。確かに小さな生き物の面倒を見るには向いていない。
「それでもなんであたしが――」
その時、ぐい、と顔の横に垂らした三つ編みが下に引っ張られる。彼は視線をそっと腕の中に向けた。
海牛はキュウキュウと小さく鳴いて、辺りをきょろきょろと見回している。前足の蹄が、彼が垂らした三つ編みの髪に引っ掛かって動けなくなっているようだ。細い足をそっと持ち上げて、外してやる。
海牛は悩ましげな圭宿の顔を見上げてもう一度、キュウ、と鳴いた。
目を伏せ、小さくため息を吐き出す。
「まあ、ここで幼子の面倒を見慣れているのはあたしくらいですか。……ハッブル君、後でこの子の食事やら何やらの情報をまとめて送ってくださいな。そしたら出来る限りのことはしましょう」
ハッブルはその言葉に細い目を輝かせて、その場でぴょんぴょんと跳ねながら礼をした。
「おお~っ! ありがとう、ありがとう! 圭宿どのならきっと上手くやってくれるに違いない! いや、この子は圭宿どのの知る哺乳類に比べれば手はかからないはずじゃ。すぐに資料をまとめておこう!」
ではな! と景気の良い挨拶を残し、ウサギはぴょんぴょんと跳ねながら場を後にした。静かになった研究室に残された圭宿は、腕の中の海牛と顔を見合わせる。
「全く、あたしが断わらないのを分かってたんでしょうねえ」
海牛はじっと黙って、黒く丸い目で顔を見上げる。圭宿は両腕でそっと抱き抱えなおし、ゆったりと体を揺らしはじめた。まるで人の赤ん坊をあやすような手つきだ。
頬を緩め、腕の中にそっと語り掛ける。
「そら、あなたも聞いてましたね? 二週間かそこらの辛抱ですよ。すぐに仲間に会えますからね」
「キュウ」
あたたかな口調に、海牛はひとつ返事をした。
海牛は手のかからない生き物だった。
とはいえそれは、ここにいるチーフのもとにいるやんちゃな子竜や、プラネタリウムにいる荒くれケートスと比較すれば、の話ではあったが。
この幼い海牛は腹を空かせた時以外はごく静かでじっとしている。ただ一つの問題は、驚くほどすぐに腹を空かせてしまうのである。
いったん腹が減ると、この生き物は黙ってあちこちを動き回り、口に入りそうなものを片っ端から口に入れ、舐めていく。おそらく幼獣の本能的なものなのだろう。
別の館に連れていけないというハッブルの言い分も今では良く理解できたし、この研究室が普段から散らかっていないことに、心の底から安心した。
彼はハッブルが用意した食事――宇宙海洋に生える苔や藻類の一種らしい――を一日に三、四度食べさせて、それ以外の時間は海牛が勝手に歩き回らないよう見張る、という仕事を余儀なくされた。
「圭宿さん……その、何か、手伝えることは、ある?」
小さな上司が柔らかな金髪をふわりと傾け、心配そうに声を掛けた。圭宿は研究室の机でとある暦の図を睨み付け、その正確性における違和感の正体を突き止めようとしていたところだった。
「おやステラ君。ありがとうございます。今は――」
大丈夫ですよ、と答えようとしたところで、椅子の横に重ねておいたストールにちらりと目をやる。さっきまでそこに眠っていたはずの海牛の姿はなく、ストールの中央には凹みだけが残されていた。
当の小さな本人は、目の前のステラの腕に抱き抱えられ、柔らかな素材でできたおもちゃを機嫌良さそうに噛んでいた。
状況を理解し、眉間を押さえて立ち上がる。
「ああ、すみません。あたしったら、この子が起きたのに気付かず。捕まえてくだすって、ありがとうございます」
礼をして、その子を受けとりますよ、という風に両手を伸ばす。ステラはほんの僅かに視線を泳がせた。ええと、と少し言葉に迷いつつ、いつものように控えめに口を開く。
「よければ、少しの間、この子を……見てましょうか。多分、大丈夫。このおもちゃも、アポロンが使ってたものなの」
ステラの斜め後ろに控えていた子竜のアポロンは得意気にフンと鼻を鳴らした。まるで、この新入りのちびすけに譲ってやったんだぞ、と自慢するかのように。
圭宿はステラの珍しい言動に少しの驚きを覚えたのち、ふむ、と顎に手を当てる。
(本来あたしへの頼まれ事ではありましたが、これは彼女の経験にもなるでしょう)
そう考えて、ゆったりと金の瞳を細めて頷いた。
「ありがとうございます。それじゃ、今からこの子の食事を手伝ってくれますか」
少女がぱちくりと瞬きをする。
「……その、お仕事は?」
ステラは心配そうに、彼の手元の資料に視線をやった。複雑な図形や計算がいくつも書かれた書類に、圭宿は肩をすくめる。
「ああ、これですか。この作業は急ぎではないんですが、面倒で煮詰まってまして。……恥ずかしながら、それで海牛が起きたのに気付かなかったんです。だからあたしも少し気晴らしがしたいところなんですよ」
その言葉にステラの顔がわずかにほころび、頷いた。
「分かりました」
乾燥した苔のようなものにほんの少しの水をかけると、すぐに繊維質にほどけて、緑色の細かい網のように広がった。海藻とは違う特有の匂いが辺りに漂う。圭宿はそれをスプーンでほぐしながら、少しずつ水を足して固さを調整する。
手伝いを頼まれたというのに任されることが何もないステラは、その手元を見つめ静かに様子を伺っていた。彼女に抱えられた海牛もまた、きょとんとした顔でおもちゃを噛んでいる。
圭宿は給湯室の隅に据えられた長椅子に腰を下ろすと、両腕を伸ばした。
「ステラ君、その子をこちらへくださいな」
少女は小さく頷き、海牛をそっと預ける。そして一瞬の迷いの後、その隣へちょこんと腰掛けた。
圭宿は手慣れた様子で海牛をうつ伏せになるように抱えなおし、顔の下の辺りに布巾を挟み込む。それから
「ハッブル君によれば、この姿勢が正しいんですって。この布巾は……これがないと、この子に服をびしょ濡れにされてしまいますから」
と、軽く笑いながら説明を挟んだ。
圭宿がスプーンを口元へ持っていくと、海牛は鼻を何度か動かした後、夢中でそれを舐めとり始めた。彼は細い目をさらに細め、その様子をじっくりと見つめる。海牛がぺちゃぺちゃと舐める音の合間に、次の一杯を掬うスプーンの固い音が響く以外は、静けさが保たれていた。
そのじっとした空気の中、ステラが口を開いた。
「……圭宿さん、宇宙海牛を見るのは、今回が初めてって」
「ええ、そうですよ。それがどうかしましたか?」
眉を上げる彼に、少女は小さな疑問の理由を言葉にする。
「なんだか、すごく……手慣れてるから」
「ああ。あたしにも子どもがいましたからね、そのおかげでしょう」
さらりと出たその言葉に、ステラは目をまん丸くした。圭宿は顔色一つ変えず、その驚きを受け止めた。
「……知らなかった」
「まあ、言う機会もそうそうありませんから。わざと黙っていたわけじゃありませんよ」
圭宿は海牛の口へスプーンを差し出しながら、静かな微笑みをもって給餌を続ける。海牛は出されたご馳走を味わおうと夢中になって、敷かれた布巾を好き放題に汚していた。
ほんの数秒間、沈黙が流れる。ステラは、良くないことを話題にしてしまったかと不安になり始めたが、それが言葉の輪郭をもち始める直前に、圭宿は口を開いた。
「あの子はあたしと違って、星にまるで興味のない子でしたねえ。むしろ、地面の虫や草に夢中だったんですよ。虫を捕まえるのを何度も手伝わされました。……大きくなっていれば、どんな子に育っていたのか」
彼の瞳は海牛をじっと見ていたが、それは人が懐かしい思い出を語るときの、どこか遠くを見据えるような視線でもあった。
微笑みながら語るその声は決して落ち込みきってはいなかったが、ステラは口をつぐんだ。いつもの青くきらめく視線を伏せて、暗く泳がせる。
それが彼女の利口さからくる沈黙であることを理解し、圭宿は柔らかく言葉を続けた。
「ステラ君は優しいですね。ええ、無理に何か言わなくて構いませんとも」
一匙を平らげた海牛の口元に新しい食事を運び、小さな口がまた忙しく動くのを見守る。
「時間が解決してくれるのを待つしかないんです。星は時には色んなものを連れていってしまいますが、塞ぎ込むばかりでは何にもなりませんから。ただ決して忘れないよう、こうして折に触れてあの子に教えてもらったことを思い出すわけです。――ほら、半分終わりましたよ。同じようにやってみなさいな」
ステラははっとして顔を上げる。
彼の手から海牛を受け取り、そっと抱き抱えなおした。食事の途中で興奮しているのか、さっき持ち上げた時と比べてよく動く。圭宿の抱え方を思い出して同じような体勢にしてやると、海牛はうまく腕の中におさまり、すんと落ち着いた。
圭宿は表情をふっと柔らかくして、餌を掬ったスプーンを手渡す。ステラはまた先ほど見たやり方を思い出して差し出すと、海牛はまるで誰からもらっても同じだと言わんばかりに食事に夢中になった。
よかった、とステラの表情の緊張がわずかに緩む。その横顔を見て、圭宿も微笑んだ。
「ええ、上手いものですよ」
足元で大人しく拗ねているアポロンの背を撫でてやりながら、圭宿は静かに見守る。
海牛の生えかけの角が、機嫌よさそうにぼんやりと光っていた。
ばたばたした足音とともに、ハッブルが圭宿の机へ現れた。珍しく作業用の眼鏡をかけたままで、小脇には書類の束を抱えている。
「圭宿どの、圭宿どの!」
「そんなに大声をあげなくとも聞こえていますよ。どうしたんです?」
作業中の筆を硯に置いて、圭宿は片眼鏡越しの視線を机の向こうに向ける。ハッブルは早口で、一言に言いきった。
「星流嵐が少し早まったようじゃ、その子を帰すのが三日ほど前倒しになる」
それを耳にした彼はいつもの通り落ち着いていたが、その両眉はわずかに上がった。当の本人である海牛は、彼の膝の上でストールに包まれてすやすや眠っている。
「まあ、星海の巡りにはそういうこともあるでしょう。三日早くなるというと、明日の午後には、といったところでしょうか」
「うむ。しかし、わしの船のスピードを考えるともっと早く……そうじゃな、朝のうちには出たいところじゃの」
ハッブルはくるんと巻いたひげをいじりながら言った。
「一旦この書類を置いてきたら、その子を引き取りにまた来るぞい。圭宿どのには本当に面倒をかけたからのう! 少しでも早くその子を引き取ってやろうと思うてな」
ウサギのその言葉に、圭宿はほんの少し黙り込む。
その時、髪がぐんと下に引っ張られた。それはここ一週間と少しの間にすっかり慣れた感覚だった。視線を下げると、案の定、起きた海牛の蹄が彼の三つ編みに引っ掛かっている。
圭宿はその細い脚をそっと持ち上げ、蹄に絡まった髪を解いた。それから、自分のほうを見上げるきょとんとした顔をじっと見つめる。
この小さな身体も、明日にはここの重力と別れを告げるのだ。
彼は金の目を伏せ、小さく首を横に振った。
「いえ、明日の朝まで面倒を見てもいいでしょうか。……ほら、あなたも出航準備があるでしょうから」
ハッブルは意外な返答に、いつもの細い目をまん丸くして二、三秒固まった。それからまたきゅっと笑顔になり、快く頷いて見せた。
いつものように研究書類の束を睨み、じっと黙って考え込む。計算は滞り、筆は進まない。圭宿はもう一時間ほど同じ調子だった。
その時、振り子時計が何度か鳴らした音に、彼はぱっと顔を上げて筆を置いた。
(そろそろあの子が腹を空かせる頃だ。食事の用意をーー)
そこまで考えて、はっとする。もう海牛の食事を用意する必要などないのだった。
圭宿は小さなため息を吐き、背もたれに寄りかかる。
(そうだ。もうあの子の世話のことを考える必要はないんでした)
あの子の世話のことを考える必要はない。
頭の中に浮かぶその言葉は、懐かしく重たい。何年も前、自身に繰り返し言い聞かせた言葉だ。あの頃の感覚は、今でも鮮明に思い起こすことができる。行き場のない寂しさに、呼吸が詰まるような感覚。そして、それを事実だと飲み込むことしか許されない空しさ。
(誰かが居なくなることは、いつだって慣れない……いや、慣れたくなどありませんね)
ふと、顔の横に下げた三つ編みに指をかけ、ほんの少しだけ引っ張ってみる。髪の毛を引っ張りたがる小さな掌と、絡まりがちな小さな蹄が脳裏によぎる。
彼はその懐かしい感覚にそっと目を閉じ、ぽつりと呟いた。
「ええ、忘れませんとも。おちびさん」
畳む

畳む
2025年10月13日(月)
〔163日前〕
おしらせ,文字
ここに上げている小説系の長文の見た目を、より読みやすいように調整しました(特にPC環境)
自分は小説の改行が少なめなので、普通の日記とかの文章と比較すると小説の文章がミッチミチに見えちゃうんですよね。
なので幅とか文字の詰め方とかフォントとか、そのへんを調整しました。
PCだと左寄せすぎて不格好かもだけど、ひとまずの対処ということで……。
(キャッシュが残っていると変更に時間がかかるかも)
適用は手動なので、過去の長文投稿も気になったものからスタイル変更していきます~。
自分は小説の改行が少なめなので、普通の日記とかの文章と比較すると小説の文章がミッチミチに見えちゃうんですよね。
なので幅とか文字の詰め方とかフォントとか、そのへんを調整しました。
PCだと左寄せすぎて不格好かもだけど、ひとまずの対処ということで……。
(キャッシュが残っていると変更に時間がかかるかも)
適用は手動なので、過去の長文投稿も気になったものからスタイル変更していきます~。
#銀嶺の獣

「あ! 何かいたよ!」
少女が川のほうへぐいっと身を乗り出す。
ニーナが指差す先では、水が穏やかに流れていた。朝日を受けた水面は、静かに音をたてながらちらちらと輝いている。小さな沢は、ここ数日の雪解け水でいつもより僅かに水流が速い。
ゼルデデは、ニーナが持った枝の片側を軽く引っ張って警告した。ついさっき少女に「こっち側を持ってて」とせがまれて持たされたものだった。
「こら。あまり、川縁に近づくんじゃない。……雪が滑って、落ちるぞ」
「大丈夫だよ! ほら、ニーナは枝のこっち側持ってるでしょ。こうやって、手を離さなきゃいいんだよ」
無邪気な少女はそう言って、枝の片側をつかんだまま、ぶらぶらと体重をかけるように川を覗き込む。
ゼルデデは枝と一緒に紐を握る手を強めた。
その細い紐はニーナの腰元につながっていた。それは、まだ幼く落ち着きのない彼女を森で見失わないよう、結びつけたものだ。使い始めてから数週間というところだったが、幸か不幸か、この紐は既に何度かその役目を果たしていた。
ゼルデデは、また今日も面倒事が起こるのかと、うんざりした気持ちになった。
「川縁は危ないんだ。前にも一度川に入って、ひどい風邪をひいただろう。あれと同じようになる……」
「ゼルデデほら! あそこにも! あれってお魚? 捕まえられないかなあ」
心配をよそに、ニーナは水の中の気配に夢中になっていた。川のほうへ重心を移動させるたび、小さな靴はぎゅむ、と微かな音を立てて雪に沈み込む。雪の下の岩が滑る想像は容易についた。
ゼルデデは仮面の下で眉をしかめ、低いため息を吐く。それから、脇でそわそわとしているオオカミに声をかけた。
「おいアル。お前も見ていないで、こいつを止めろ。俺は、また病人の面倒をみるのは、こりごりなんだ」
オオカミはその不機嫌そうな顔を一瞬見上げてから、真意を察する。
『ニーナ、ゼルデデが心配してるぜ』
湿った鼻でぐいと胸元を押され、ニーナは唇を尖らせた。「はーい」と煮え切らない返事をして、ゼルデデの足元まで後ずさる。
「ね、ゼルデデはあの魚とれる?」
ニーナを連れて数歩下がりながら、ゼルデデは仮面越しの川に目をやった。銀に光る水面の下で、小さな影が揺れているのが見える。
「捕れるが、ここのは小さすぎて、食えるようなものではない。わざわざ捕ろうとは、思わん」
そう不愛想に言った数拍の後、ゼルデデはまた口を開いた。
「……興味があるなら、後で釣具か罠でも作ってやろうか」
「釣り! やりたい! ね、早くお散歩終わらせて帰ろうよう」
少女は見上げた瞳を輝かせて、ぐいぐいと枝を引っ張る。
わがままな振る舞いに呆れながら、ゼルデデは白い息を吐いた。
畳む
2026/2/1 ちょっと加筆修正

「あ! 何かいたよ!」
少女が川のほうへぐいっと身を乗り出す。
ニーナが指差す先では、水が穏やかに流れていた。朝日を受けた水面は、静かに音をたてながらちらちらと輝いている。小さな沢は、ここ数日の雪解け水でいつもより僅かに水流が速い。
ゼルデデは、ニーナが持った枝の片側を軽く引っ張って警告した。ついさっき少女に「こっち側を持ってて」とせがまれて持たされたものだった。
「こら。あまり、川縁に近づくんじゃない。……雪が滑って、落ちるぞ」
「大丈夫だよ! ほら、ニーナは枝のこっち側持ってるでしょ。こうやって、手を離さなきゃいいんだよ」
無邪気な少女はそう言って、枝の片側をつかんだまま、ぶらぶらと体重をかけるように川を覗き込む。
ゼルデデは枝と一緒に紐を握る手を強めた。
その細い紐はニーナの腰元につながっていた。それは、まだ幼く落ち着きのない彼女を森で見失わないよう、結びつけたものだ。使い始めてから数週間というところだったが、幸か不幸か、この紐は既に何度かその役目を果たしていた。
ゼルデデは、また今日も面倒事が起こるのかと、うんざりした気持ちになった。
「川縁は危ないんだ。前にも一度川に入って、ひどい風邪をひいただろう。あれと同じようになる……」
「ゼルデデほら! あそこにも! あれってお魚? 捕まえられないかなあ」
心配をよそに、ニーナは水の中の気配に夢中になっていた。川のほうへ重心を移動させるたび、小さな靴はぎゅむ、と微かな音を立てて雪に沈み込む。雪の下の岩が滑る想像は容易についた。
ゼルデデは仮面の下で眉をしかめ、低いため息を吐く。それから、脇でそわそわとしているオオカミに声をかけた。
「おいアル。お前も見ていないで、こいつを止めろ。俺は、また病人の面倒をみるのは、こりごりなんだ」
オオカミはその不機嫌そうな顔を一瞬見上げてから、真意を察する。
『ニーナ、ゼルデデが心配してるぜ』
湿った鼻でぐいと胸元を押され、ニーナは唇を尖らせた。「はーい」と煮え切らない返事をして、ゼルデデの足元まで後ずさる。
「ね、ゼルデデはあの魚とれる?」
ニーナを連れて数歩下がりながら、ゼルデデは仮面越しの川に目をやった。銀に光る水面の下で、小さな影が揺れているのが見える。
「捕れるが、ここのは小さすぎて、食えるようなものではない。わざわざ捕ろうとは、思わん」
そう不愛想に言った数拍の後、ゼルデデはまた口を開いた。
「……興味があるなら、後で釣具か罠でも作ってやろうか」
「釣り! やりたい! ね、早くお散歩終わらせて帰ろうよう」
少女は見上げた瞳を輝かせて、ぐいぐいと枝を引っ張る。
わがままな振る舞いに呆れながら、ゼルデデは白い息を吐いた。
畳む
2026/2/1 ちょっと加筆修正
#銀嶺の獣

山の天気が変わるのは、突然だった。
散歩の間に吹雪に吹かれたゼルデデは、連れていた一人と一匹を軽々とかつぎ上げた。
「わっ」
と驚く小さな声には気にも留めず、少し歩いた場所に突然現れた洞窟に潜り込む。雪の中にぽっかりと開いた入り口は随分と狭く見えたが、彼は一切の躊躇を見せることなく、その中へ入っていった。
薄暗い闇の中に下ろされた二人は、冷たい雪の張り付いた顔を見合わせた。
ゼルデデはただ一言
「そこにいろ」
と呟き、奥へと歩いていった。
目の前には、外の雪のわずかな光も届かない闇が広がっている。オオカミのアルには、この洞窟がどれほど広いのかも見当がつかなかった。音の響き方と、並の人間より背の高いゼルデデが難なく歩けるところを見るに、洞窟の天井は随分と高さがあるようだった。
外の吹雪はひどくなる一方だった。しかし、その冷気を含む風は外をごうごうと通り過ぎるだけで、洞窟の内側へ吹き込んでくる風は、ほんの少しだけだった。ひゅうひゅうと、耳をつんざくような高い音が響く。
アルはニーナが冷えないように、その分厚い毛皮をぎゅっと近寄せた。
洞窟の奥で、ゼルデデは何かがたがたと音を立てている。状況がまだあまり理解できていない様子の少女は、呑気に質問を投げ掛けた。
「ねー、何してるの」
その高い声は、洞窟の中にわあんとこだました。絶えず反響している外の風音と重なって、耳の奥が揺らされる。
ゼルデデはただ一言
「準備」
とだけ返事をした。暗い中で何をしているのか、ニーナの視界にはほとんど映らない。
やがて彼は入口付近に戻ってきた。それから、どうにか吹雪の風が当たらないくらいの場所に座ると、手に持ってきた枝をがさがさと置いた。服から火打石を取り出し、手慣れた様子で布の切れ端に火を点ける。その火口の火は枯れ枝に燃え移り、やがて小さな焚き火となった。
ニーナとアルはぴったりくっついたまま、そこへ近付いた。
「あったかいねぇ」
少女は手をかざして、にこにこと微笑む。
火は辺りをぼんやりと照らし、洞窟の高い壁に大きな影を作った。それはまだ小さかったが、雪に凍えた彼らにとっては何よりも頼もしい暖かさだった。
ゼルデデは黙って、火の様子を見ながら淡々と枝を投げ込んでいく。枝はぱちぱちと音を立て、段々と火の勢いも強まってきた。
洞窟の壁に、三つの大きな影がゆらゆらと映る。
『よく燃やせるような枝があったな』
それは二人にだけ聞こえるアルの声だ。
ゼルデデは火から一切目を離さずに、ぼそぼそとした低い声で答える。
「この辺りはよく通るから、こういう時のために、時々物資を補給しているんだ。……奥に小さな縦穴もあるから、換気も心配ない……良い場所だ」
そこでオオカミは改めて周囲を見回した。少し明るく照らされた辺りを見れば、火を焚いた跡や掃除をした形跡が見えた。
『へえ、避難所ってとこか。こういう場所は他にもあるのか?』
「……何か所か、ある」
会話はそれきりだった。
暖かな炎に照らされた空間には、ごうごうと強まる風の音が、くぐもって響いていた。
焚き火が安定してくると、ゼルデデは雪で濡れた上着を脱いだ。上着の表面が乾くように焚き火のそばに広げ、いつの間にか外していた仮面をその上に静かに置く。
ゼルデデが焚き火に向かってどっしりと腰を下ろすと、アルとニーナはいそいそと移動し、彼を挟むようにぴったりと座り込んだ。
「ねえゼルデデ、お話して」
ニーナはそう言ってゼルデデを見上げる。目が合うと、少女の金と青の大きな瞳はぱちぱちと瞬きをした。大男は僅かに眉をしかめる。
「話、だと?」
「うん!」
「……話すことなど、ない」
考える素振りもなく、ゼルデデは首を横に振った。
その態度に、少女は頬を膨らませる。
「作り話でも、昔話でも、何でもいいんだよ。このままじゃ眠くなっちゃう! ねえ、アルもそうでしょ?」
『オレは別に……』
オオカミはそう言いかけて、目の前にいる少女のしかめっ面の意味を汲み取った。ここで少女の機嫌をとらないと、後々面倒なことになりそうだ。
『ゼルデデ、オレもお前の話が聞きたいな。お前はこの中で一番長生きだから、色んな話を知っているだろ』
男は眉をさらに曲げ、一人と一匹の顔を見やった。左右から投げられる視線は、純粋で期待に満ちている。
彼は眉間の皺に手を当てて、低く長いため息をゆっくりと吐きだした。
それからさらに少し間をおいて、彼は観念したように口を開いた。金色の目に、焚き火の明かりがちらつく。
「……俺が子どもの頃に聞いた話だ。昔、とある村に男が住んでいたという。彼はたいへんな正直者で――」
普段とは違う朗々とした語り口に、ニーナとアルは一瞬目を合わせた。
その驚きは、話に聞き入っていくとすぐにどこかへ行ってしまった。それはどこにでもあるような昔話だった。けれど、彼の紡ぐ言葉には、まるでその話を本当に見てきたかのような様子があった。
低い声で紡がれる語りが、洞窟内にこだまする。
うなる風音が、枯れ枝がはじける音と重なり、歌のように響いていた。
畳む
2026/2/1 加筆修正

山の天気が変わるのは、突然だった。
散歩の間に吹雪に吹かれたゼルデデは、連れていた一人と一匹を軽々とかつぎ上げた。
「わっ」
と驚く小さな声には気にも留めず、少し歩いた場所に突然現れた洞窟に潜り込む。雪の中にぽっかりと開いた入り口は随分と狭く見えたが、彼は一切の躊躇を見せることなく、その中へ入っていった。
薄暗い闇の中に下ろされた二人は、冷たい雪の張り付いた顔を見合わせた。
ゼルデデはただ一言
「そこにいろ」
と呟き、奥へと歩いていった。
目の前には、外の雪のわずかな光も届かない闇が広がっている。オオカミのアルには、この洞窟がどれほど広いのかも見当がつかなかった。音の響き方と、並の人間より背の高いゼルデデが難なく歩けるところを見るに、洞窟の天井は随分と高さがあるようだった。
外の吹雪はひどくなる一方だった。しかし、その冷気を含む風は外をごうごうと通り過ぎるだけで、洞窟の内側へ吹き込んでくる風は、ほんの少しだけだった。ひゅうひゅうと、耳をつんざくような高い音が響く。
アルはニーナが冷えないように、その分厚い毛皮をぎゅっと近寄せた。
洞窟の奥で、ゼルデデは何かがたがたと音を立てている。状況がまだあまり理解できていない様子の少女は、呑気に質問を投げ掛けた。
「ねー、何してるの」
その高い声は、洞窟の中にわあんとこだました。絶えず反響している外の風音と重なって、耳の奥が揺らされる。
ゼルデデはただ一言
「準備」
とだけ返事をした。暗い中で何をしているのか、ニーナの視界にはほとんど映らない。
やがて彼は入口付近に戻ってきた。それから、どうにか吹雪の風が当たらないくらいの場所に座ると、手に持ってきた枝をがさがさと置いた。服から火打石を取り出し、手慣れた様子で布の切れ端に火を点ける。その火口の火は枯れ枝に燃え移り、やがて小さな焚き火となった。
ニーナとアルはぴったりくっついたまま、そこへ近付いた。
「あったかいねぇ」
少女は手をかざして、にこにこと微笑む。
火は辺りをぼんやりと照らし、洞窟の高い壁に大きな影を作った。それはまだ小さかったが、雪に凍えた彼らにとっては何よりも頼もしい暖かさだった。
ゼルデデは黙って、火の様子を見ながら淡々と枝を投げ込んでいく。枝はぱちぱちと音を立て、段々と火の勢いも強まってきた。
洞窟の壁に、三つの大きな影がゆらゆらと映る。
『よく燃やせるような枝があったな』
それは二人にだけ聞こえるアルの声だ。
ゼルデデは火から一切目を離さずに、ぼそぼそとした低い声で答える。
「この辺りはよく通るから、こういう時のために、時々物資を補給しているんだ。……奥に小さな縦穴もあるから、換気も心配ない……良い場所だ」
そこでオオカミは改めて周囲を見回した。少し明るく照らされた辺りを見れば、火を焚いた跡や掃除をした形跡が見えた。
『へえ、避難所ってとこか。こういう場所は他にもあるのか?』
「……何か所か、ある」
会話はそれきりだった。
暖かな炎に照らされた空間には、ごうごうと強まる風の音が、くぐもって響いていた。
焚き火が安定してくると、ゼルデデは雪で濡れた上着を脱いだ。上着の表面が乾くように焚き火のそばに広げ、いつの間にか外していた仮面をその上に静かに置く。
ゼルデデが焚き火に向かってどっしりと腰を下ろすと、アルとニーナはいそいそと移動し、彼を挟むようにぴったりと座り込んだ。
「ねえゼルデデ、お話して」
ニーナはそう言ってゼルデデを見上げる。目が合うと、少女の金と青の大きな瞳はぱちぱちと瞬きをした。大男は僅かに眉をしかめる。
「話、だと?」
「うん!」
「……話すことなど、ない」
考える素振りもなく、ゼルデデは首を横に振った。
その態度に、少女は頬を膨らませる。
「作り話でも、昔話でも、何でもいいんだよ。このままじゃ眠くなっちゃう! ねえ、アルもそうでしょ?」
『オレは別に……』
オオカミはそう言いかけて、目の前にいる少女のしかめっ面の意味を汲み取った。ここで少女の機嫌をとらないと、後々面倒なことになりそうだ。
『ゼルデデ、オレもお前の話が聞きたいな。お前はこの中で一番長生きだから、色んな話を知っているだろ』
男は眉をさらに曲げ、一人と一匹の顔を見やった。左右から投げられる視線は、純粋で期待に満ちている。
彼は眉間の皺に手を当てて、低く長いため息をゆっくりと吐きだした。
それからさらに少し間をおいて、彼は観念したように口を開いた。金色の目に、焚き火の明かりがちらつく。
「……俺が子どもの頃に聞いた話だ。昔、とある村に男が住んでいたという。彼はたいへんな正直者で――」
普段とは違う朗々とした語り口に、ニーナとアルは一瞬目を合わせた。
その驚きは、話に聞き入っていくとすぐにどこかへ行ってしまった。それはどこにでもあるような昔話だった。けれど、彼の紡ぐ言葉には、まるでその話を本当に見てきたかのような様子があった。
低い声で紡がれる語りが、洞窟内にこだまする。
うなる風音が、枯れ枝がはじける音と重なり、歌のように響いていた。
畳む
2026/2/1 加筆修正
2025年7月31日(木)
〔237日前〕
文字
#知恵の劇場 単発小説
サフランの仕事はこんな感じなのかな~というお話。
※架空の動物の解体描写あり
※解体や生態についてはツッコミどころだらけだと思うんですが大目に見てください
死後検査報告書:水妖類シロハラスイバ幼体
「明後日の昼から、死後検査入れられますか」
廊下で唐突に呼び止められたかと思えば、訊ねられたのはそんなことだった。
相手はサフランと同じ動物館の学芸員で、なかでも比較的よく合わせる顔だった。4本の腕を器用に組み、背中に緑色の鎌を畳んだ蟷螂の彼女は、ここの剥製師の一人だ。
明後日の昼かあ、と口の中で呟く。
「ちょい待って」
一旦そう返して、サフランは袖のポケットから小さなメモを取り出し、青い指でぱらぱらと捲る。ここ数日の予定はこまごましていたから、詰めれば時間はとれそうだ。
サフランは軽く頷き、メモをしまいながら言った。
「いけると思う。今回は何?」
剝製師はいつもの澄ました顔で、淡々と答える。
「シロハラスイバ……いわゆるケルピー類ですね、その幼体です。頭部の損傷が激しいのですが、死因に気になるところがあるらしく。今は魔法のほうで、死後数時間の状態で保ってもらっています」
サフランはその言葉に眉をひそめた。ケルピーといえば、馬の姿をした水棲の生物だ。心配そうに呟く。
「……いけるかな。あたしケルピー馴染みないよ?」
「むしろあなた以外に、いけそうな人は見当たらない」
剥製士は上の肩をすくめて、さらりとそう言った。病理専門の者が少ないここで、必要があれば駆り出されるのは仕方のないことだ。
眉根を寄せたままのサフランに、剥製師は頭をひねって言った。
「ああ……ほら。スイバは水妖のなかでも比較的あなたの専門に近い形質ではあるでしょう? 今後の参考にもなるんじゃないですか」
最後の言葉に、サフランは大きなため息を返した。彼女の言う通りだ。経験は積んでおいて損はない。
「あー、分かったよ。後で詳細送っといて」
ゾンビは青い袖をひらひらと振った。
◇
白い腹の皮膚に、すっと刃が入る。
その姿は子馬によく似ていたが、毛質や蹄の形状など、所々がウマと違っていた。何より見慣れないのが、水中生活に対応した魚のような尾びれだった。
サフランはその様子を一歩離れた場所から眺めていた。部屋の中には彼女と剥製師のほかに二人の学芸員――それぞれ水棲生物と幻想種の専門だった――がいる。 彼らはそれぞれしきりに手元の紙に書き込んでいた。
サフランはこの二日間、ケルピーの中でもシロハラスイバと呼ばれるこの種に関する事項を頭に叩き込んでいた。しかし個体数の少ない生物であったから、直接参考になるような資料は少ない。近縁種や単なる目撃証言など、できる限り周囲の情報にも目を通しておいた。
本当は向かいにいる学芸員たちに教えを乞えればよかったが、彼らはここ二日間ずっと忙しくしていて、おすすめの本を借りることくらいしかできなかったのだ。それでも、近縁種のケルピーやセイレーン、ウマ類の幻想種について知識が得られたのは幸いだった。
剥製師のナイフさばきには一切の迷いがない。サフランにはまるで意味が分からなかったが、彼女には切るべき線がもう見えているのだろう。先に計測した時に小さく付けたしるしに向かって滑るナイフは、美しかった。
なめらかな皮が、剥がされていく。シロハラスイバは、ただでさえスイバのなかでも小型な種だ。その幼体はウマに似ているとはいえ、中型犬ほどの大きさしかなかった。剝製師は四本の腕を器用に操って、美しい皮を淡々と剥いでいく。手伝うまでもなく、四肢の白い皮は順番に重みをなくしていき、代わりにその下からピンク色の塊が顔を出す。
事前の観察の時点でも、このスイバの毛並みはやや粗く、痩せていた。剥がすところをみると皮下脂肪も全体的に薄く見えたが、どこまでがこの個体の特徴なのか、サフランには判断がつかない。とりあえず、と思い手元のメモに書き留めておく。
首から下の皮だけをなめしてサンプルにするというのは、事前に聞いていた事項だ。頭部は強い物理的衝撃を受けたようで、もはや原型を留めていない。
「はい、こちらは大丈夫です」
魚類に似た尾びれの先端を切り離し、全身の処理を終えた剝製師は言った。ナイフをそっと置き、それから白い皮を大きなバットに丁寧に移す。
「皮は問題ありませんから、処理のほうへ回します。サフラン、どうぞ」
サフランは頷く。それからいつものように長い袖を捲るような動きをしてしまい、から回る手元にはっとした。
(あー、やっぱ白衣って苦手。いつまで経っても慣れない)
その白い袖はいつだって、自分が着るはずではないもの、という感覚がする。しかしサフランにとってその服は、まあまあの実用性以上に、目の前にあるかつて生きていたものへの敬意を表す意味をも持っていた。
皮膚を失ったスイバの前に立って手袋をはめ、軽く両手を合わせる。信仰ではなかった。彼女の生まれ育った文化が、自然とそうさせたのだ。
サフランは手にとったメスで、首元から腹部にかけて鋭利な切れ目を入れていった。青い腕の先で、銀色に光る刃。胸骨に分厚い骨鋏を入れる瞬間の、硬く響く音。かつて動いていた器官からあがる、むっとする匂い。音もなく裂かれるなめらかな薄い膜。その中身を隅々と見つめる、鋭い黄色の瞳。
必死に手と視線と頭を動かしながら、彼女は気付いたことを次々と声に出す。隣の学芸員に書きとってもらうのだ。
「やっぱり脂肪は少ないし、肉も薄い。消化管は委縮。浮袋は広がっていないが炎症。肝臓の一部が壊死している――」
そして時折、隣の学芸員に訊ねることもあった。
「胃の中に少量ある紫のこれ、藻類だと思うんだけど。スイバってこれ食べたっけ?」
「いや、スイバどころか、ケルピー類にとっての毒。食べるなんて、思えない」
「分かった。とっておこう」
専門的なところの指示も受けながら、サフランはこの個体から得られる情報を一つでも見落とさないように、解体と観察を続けた。
スイバの資料は少ない。だが、今目の前にあるものがいつか誰かの役に立つ資料のひとつになるはずだ。
そんな心持ちで、サフランは目の前で解体されゆく肉体を見つめていた。ここにいる学者は皆、同じことを考えていたことだろう。
◇
「内臓の一部にみられた中毒症状は、やはり胃に残っていたシセロ水藻のものだろう、とのことです」
休憩所で話していたサフランと水棲生物学者に、植物館からの伝言を持ってきた幻想生物学者は言った。サフランはありがとー、と言って返された書類を確認する。
それは一週間前のあの解体後に作った資料だった。写真と所見がおおざっぱに、そして大量にまとめてある。彼女は後でこの内容を精査することを考えるとうんざりしたが、ひとまず新しい情報に集中することにした。
紙束の最初に付け足された一枚は、図鑑のページをコピーしたもののようだ。藻類の種名とその説明がずらりと並んでいる中、赤いペンで線が引かれている箇所がある。『シセロ水藻』『本種に含まれる成分は幻覚作用と肝臓障害を引き起こす』……。
幻想種の学者は白っぽい髪を掻きあげ、立ったままで話し始めた。
「ただ、ケルピーはそもそも、シセロ水藻があるような水質自体を好みません。わざわざこれを食べるような状況として考えられるのは……ストレスによる異常行動、などでしょうか」
サフランは、瘦せこけたスイバの体を思い出していた。頭の中に流れてきた考えをまとめるように口に出してみる。
「胃には水藻しかなかったじゃん? 空腹のさなかにあの藻類を食べたってことでしょ」
向かいにいる二人の学芸員が頷くのを見て、サフランは続けた。
「たとえば、何らかのストレスを受けて飢餓状態が続いて、 本来では行かないはずの水域に迷い込んだ。そこで藻類を食べて飢餓に中毒が重なって死亡。で、ドラゴン類に頭部を襲われたのは死後……順序的にはそんな感じがするね」
何らかのストレス、と自分で言った言葉を繰り返す。水棲種の学者が、茶色い猫のような耳を揺らしながらぽつぽつと呟くように言った。
「あのケルピーはまだ、親離れしてない大きさ。あれらの親子は、基本的に常に一緒だ。親も水域を間違えるほどのことがあったか、あるいは……」
「育児放棄の可能性、かあ」
サフランは頭の上で腕を組み、椅子の背もたれに思いっきり寄りかかった。
茶色い猫の学者は小さく肩をすくめた。
「あくまで、推測でしかない」
「ええ、それにあの辺りには幻覚性のドラゴンもわずかにいますから。可能性はまだ絞り込めませんね」
長い髪を揺らして苦笑いする学者に、サフランは軽いトーンで応えた。
「それでも、あの子は色んなことを伝えてくれたよ。こりゃしっかりまとめなきゃね」
二人の学者に別れを告げて、サフランは研究室に脚を運ぶことにした。頭を使う事務作業は、静かなほうが捗る。やがて廊下の向こうから四本腕の剝製師がやってくるのに気が付いて、サフランは長い袖を振った。
剝製師はいつも通りすんっと澄ました顔をして、抑揚のない声で言った。
「ああ、お疲れ様です。スイバの解体資料は順調ですか」
「誰のおかげで増えた仕事だと」
サフランの言葉は怒っているようだったが、その声と顔は冗談っぽく笑っていた。剝製師も珍しく口角をうっすら上げる。
少しの間をおいて、サフランは低い声でぽつりと言った。
「ね、本当にあたしでよかったのかな。何か……何かずっと、見落としがある気がして。あの子が持っていた情報の何割を、あたしは読めたんだろう、って」
いつもあっけらかんとしたサフランが時折見せる、真面目さから来る自信のなさ。剝製師は一瞬考え込み、それからさらりと言った。
「でも、私はあなたに頼んで良かったと思っていますよ。それに、あなた一人で検査したわけじゃないでしょう? 今の私たちにできることは全てやりましたし、今受け取れる限りの情報をもらえました。私はそう思っています」
サフランは少し納得したものの、でもさあ、と悩む口ぶりをごにょごにょと続ける。それを見た彼女はうっすら微笑んで言った。
「いつでも歩みを止めようとしないのは、あなたの美点ですね」
剝製師はぱっと踵を返して、廊下の奥へと歩き出した。「戻るの?」と顔を上げたサフランを軽く振り返って言う。
「皮をなめしているところでも見ますか」
「えっ、いいの」
そう驚くサフランの顔は、にわかに明るくなっていた。
「別に、見たくないのなら構いませんが?」
サフランは笑い、迷わずに四本の腕を組んだ背中をぱたぱたと追いかける。
ふたつの足音が廊下に響いていった。
畳む
サフランの仕事はこんな感じなのかな~というお話。
※架空の動物の解体描写あり
※解体や生態についてはツッコミどころだらけだと思うんですが大目に見てください
死後検査報告書:水妖類シロハラスイバ幼体
「明後日の昼から、死後検査入れられますか」
廊下で唐突に呼び止められたかと思えば、訊ねられたのはそんなことだった。
相手はサフランと同じ動物館の学芸員で、なかでも比較的よく合わせる顔だった。4本の腕を器用に組み、背中に緑色の鎌を畳んだ蟷螂の彼女は、ここの剥製師の一人だ。
明後日の昼かあ、と口の中で呟く。
「ちょい待って」
一旦そう返して、サフランは袖のポケットから小さなメモを取り出し、青い指でぱらぱらと捲る。ここ数日の予定はこまごましていたから、詰めれば時間はとれそうだ。
サフランは軽く頷き、メモをしまいながら言った。
「いけると思う。今回は何?」
剝製師はいつもの澄ました顔で、淡々と答える。
「シロハラスイバ……いわゆるケルピー類ですね、その幼体です。頭部の損傷が激しいのですが、死因に気になるところがあるらしく。今は魔法のほうで、死後数時間の状態で保ってもらっています」
サフランはその言葉に眉をひそめた。ケルピーといえば、馬の姿をした水棲の生物だ。心配そうに呟く。
「……いけるかな。あたしケルピー馴染みないよ?」
「むしろあなた以外に、いけそうな人は見当たらない」
剥製士は上の肩をすくめて、さらりとそう言った。病理専門の者が少ないここで、必要があれば駆り出されるのは仕方のないことだ。
眉根を寄せたままのサフランに、剥製師は頭をひねって言った。
「ああ……ほら。スイバは水妖のなかでも比較的あなたの専門に近い形質ではあるでしょう? 今後の参考にもなるんじゃないですか」
最後の言葉に、サフランは大きなため息を返した。彼女の言う通りだ。経験は積んでおいて損はない。
「あー、分かったよ。後で詳細送っといて」
ゾンビは青い袖をひらひらと振った。
◇
白い腹の皮膚に、すっと刃が入る。
その姿は子馬によく似ていたが、毛質や蹄の形状など、所々がウマと違っていた。何より見慣れないのが、水中生活に対応した魚のような尾びれだった。
サフランはその様子を一歩離れた場所から眺めていた。部屋の中には彼女と剥製師のほかに二人の学芸員――それぞれ水棲生物と幻想種の専門だった――がいる。 彼らはそれぞれしきりに手元の紙に書き込んでいた。
サフランはこの二日間、ケルピーの中でもシロハラスイバと呼ばれるこの種に関する事項を頭に叩き込んでいた。しかし個体数の少ない生物であったから、直接参考になるような資料は少ない。近縁種や単なる目撃証言など、できる限り周囲の情報にも目を通しておいた。
本当は向かいにいる学芸員たちに教えを乞えればよかったが、彼らはここ二日間ずっと忙しくしていて、おすすめの本を借りることくらいしかできなかったのだ。それでも、近縁種のケルピーやセイレーン、ウマ類の幻想種について知識が得られたのは幸いだった。
剥製師のナイフさばきには一切の迷いがない。サフランにはまるで意味が分からなかったが、彼女には切るべき線がもう見えているのだろう。先に計測した時に小さく付けたしるしに向かって滑るナイフは、美しかった。
なめらかな皮が、剥がされていく。シロハラスイバは、ただでさえスイバのなかでも小型な種だ。その幼体はウマに似ているとはいえ、中型犬ほどの大きさしかなかった。剝製師は四本の腕を器用に操って、美しい皮を淡々と剥いでいく。手伝うまでもなく、四肢の白い皮は順番に重みをなくしていき、代わりにその下からピンク色の塊が顔を出す。
事前の観察の時点でも、このスイバの毛並みはやや粗く、痩せていた。剥がすところをみると皮下脂肪も全体的に薄く見えたが、どこまでがこの個体の特徴なのか、サフランには判断がつかない。とりあえず、と思い手元のメモに書き留めておく。
首から下の皮だけをなめしてサンプルにするというのは、事前に聞いていた事項だ。頭部は強い物理的衝撃を受けたようで、もはや原型を留めていない。
「はい、こちらは大丈夫です」
魚類に似た尾びれの先端を切り離し、全身の処理を終えた剝製師は言った。ナイフをそっと置き、それから白い皮を大きなバットに丁寧に移す。
「皮は問題ありませんから、処理のほうへ回します。サフラン、どうぞ」
サフランは頷く。それからいつものように長い袖を捲るような動きをしてしまい、から回る手元にはっとした。
(あー、やっぱ白衣って苦手。いつまで経っても慣れない)
その白い袖はいつだって、自分が着るはずではないもの、という感覚がする。しかしサフランにとってその服は、まあまあの実用性以上に、目の前にあるかつて生きていたものへの敬意を表す意味をも持っていた。
皮膚を失ったスイバの前に立って手袋をはめ、軽く両手を合わせる。信仰ではなかった。彼女の生まれ育った文化が、自然とそうさせたのだ。
サフランは手にとったメスで、首元から腹部にかけて鋭利な切れ目を入れていった。青い腕の先で、銀色に光る刃。胸骨に分厚い骨鋏を入れる瞬間の、硬く響く音。かつて動いていた器官からあがる、むっとする匂い。音もなく裂かれるなめらかな薄い膜。その中身を隅々と見つめる、鋭い黄色の瞳。
必死に手と視線と頭を動かしながら、彼女は気付いたことを次々と声に出す。隣の学芸員に書きとってもらうのだ。
「やっぱり脂肪は少ないし、肉も薄い。消化管は委縮。浮袋は広がっていないが炎症。肝臓の一部が壊死している――」
そして時折、隣の学芸員に訊ねることもあった。
「胃の中に少量ある紫のこれ、藻類だと思うんだけど。スイバってこれ食べたっけ?」
「いや、スイバどころか、ケルピー類にとっての毒。食べるなんて、思えない」
「分かった。とっておこう」
専門的なところの指示も受けながら、サフランはこの個体から得られる情報を一つでも見落とさないように、解体と観察を続けた。
スイバの資料は少ない。だが、今目の前にあるものがいつか誰かの役に立つ資料のひとつになるはずだ。
そんな心持ちで、サフランは目の前で解体されゆく肉体を見つめていた。ここにいる学者は皆、同じことを考えていたことだろう。
◇
「内臓の一部にみられた中毒症状は、やはり胃に残っていたシセロ水藻のものだろう、とのことです」
休憩所で話していたサフランと水棲生物学者に、植物館からの伝言を持ってきた幻想生物学者は言った。サフランはありがとー、と言って返された書類を確認する。
それは一週間前のあの解体後に作った資料だった。写真と所見がおおざっぱに、そして大量にまとめてある。彼女は後でこの内容を精査することを考えるとうんざりしたが、ひとまず新しい情報に集中することにした。
紙束の最初に付け足された一枚は、図鑑のページをコピーしたもののようだ。藻類の種名とその説明がずらりと並んでいる中、赤いペンで線が引かれている箇所がある。『シセロ水藻』『本種に含まれる成分は幻覚作用と肝臓障害を引き起こす』……。
幻想種の学者は白っぽい髪を掻きあげ、立ったままで話し始めた。
「ただ、ケルピーはそもそも、シセロ水藻があるような水質自体を好みません。わざわざこれを食べるような状況として考えられるのは……ストレスによる異常行動、などでしょうか」
サフランは、瘦せこけたスイバの体を思い出していた。頭の中に流れてきた考えをまとめるように口に出してみる。
「胃には水藻しかなかったじゃん? 空腹のさなかにあの藻類を食べたってことでしょ」
向かいにいる二人の学芸員が頷くのを見て、サフランは続けた。
「たとえば、何らかのストレスを受けて飢餓状態が続いて、 本来では行かないはずの水域に迷い込んだ。そこで藻類を食べて飢餓に中毒が重なって死亡。で、ドラゴン類に頭部を襲われたのは死後……順序的にはそんな感じがするね」
何らかのストレス、と自分で言った言葉を繰り返す。水棲種の学者が、茶色い猫のような耳を揺らしながらぽつぽつと呟くように言った。
「あのケルピーはまだ、親離れしてない大きさ。あれらの親子は、基本的に常に一緒だ。親も水域を間違えるほどのことがあったか、あるいは……」
「育児放棄の可能性、かあ」
サフランは頭の上で腕を組み、椅子の背もたれに思いっきり寄りかかった。
茶色い猫の学者は小さく肩をすくめた。
「あくまで、推測でしかない」
「ええ、それにあの辺りには幻覚性のドラゴンもわずかにいますから。可能性はまだ絞り込めませんね」
長い髪を揺らして苦笑いする学者に、サフランは軽いトーンで応えた。
「それでも、あの子は色んなことを伝えてくれたよ。こりゃしっかりまとめなきゃね」
二人の学者に別れを告げて、サフランは研究室に脚を運ぶことにした。頭を使う事務作業は、静かなほうが捗る。やがて廊下の向こうから四本腕の剝製師がやってくるのに気が付いて、サフランは長い袖を振った。
剝製師はいつも通りすんっと澄ました顔をして、抑揚のない声で言った。
「ああ、お疲れ様です。スイバの解体資料は順調ですか」
「誰のおかげで増えた仕事だと」
サフランの言葉は怒っているようだったが、その声と顔は冗談っぽく笑っていた。剝製師も珍しく口角をうっすら上げる。
少しの間をおいて、サフランは低い声でぽつりと言った。
「ね、本当にあたしでよかったのかな。何か……何かずっと、見落としがある気がして。あの子が持っていた情報の何割を、あたしは読めたんだろう、って」
いつもあっけらかんとしたサフランが時折見せる、真面目さから来る自信のなさ。剝製師は一瞬考え込み、それからさらりと言った。
「でも、私はあなたに頼んで良かったと思っていますよ。それに、あなた一人で検査したわけじゃないでしょう? 今の私たちにできることは全てやりましたし、今受け取れる限りの情報をもらえました。私はそう思っています」
サフランは少し納得したものの、でもさあ、と悩む口ぶりをごにょごにょと続ける。それを見た彼女はうっすら微笑んで言った。
「いつでも歩みを止めようとしないのは、あなたの美点ですね」
剝製師はぱっと踵を返して、廊下の奥へと歩き出した。「戻るの?」と顔を上げたサフランを軽く振り返って言う。
「皮をなめしているところでも見ますか」
「えっ、いいの」
そう驚くサフランの顔は、にわかに明るくなっていた。
「別に、見たくないのなら構いませんが?」
サフランは笑い、迷わずに四本の腕を組んだ背中をぱたぱたと追いかける。
ふたつの足音が廊下に響いていった。
畳む
2025年7月23日(水)
〔245日前〕
文字
#知恵の劇場
書き途中のお話に入れるか迷って結局入れないことになった文章。
せっかくなので少し整えて置いておく。
ロクと出会った人間の話。
ある船乗りの見た景色
ありゃ何だ!? 鳥……鳥だって? あんな大きさの鳥があるもんか! いや違う、見間違いじゃねえ!
――二時の方向から巨大な鳥だァ!
マストの見張り台から聞こえた声。その瞬間ちょうど甲板の掃除をしていた俺は、直ぐにその方角に目をやった。雲を背に空に浮かぶそれは影になってよく見えなかったが、鳥だった。そして確かに、海鳥とは明らかに違う飛び方と輪郭をしている。俺は数秒後に気付くことになった。その鳥の近付いてくる速さと、異様なまでの大きさに。
船長はあらんかぎりの声を張り上げて俺たち船員に指示を出し、俺たちもそれに応えた。しかし鳥の急接近は目にも止まらぬ速さで、船の進行方向を変えるのすら間に合わなかった。大砲も空をきる。
太陽はにわかに巨大な翼に覆い隠されたかと思うと、次の瞬間には俺のすぐ真後ろに鱗の脚と鉤爪が迫っていた。
雷かと思うほどの、大きく割れるように軋む音。一瞬で終わりを覚悟するほどに傾く船体。身の丈の何倍も高く上がる水しぶき。
俺は本来ならすぐ振り落とされそうな場所にいたが、運良くロープを掴むのに間に合った。大きく揺れ動き続ける船体に必死でしがみつき、上を見上げる。
巨大なワシのような鳥が、ばさばさと羽を振って船にしがみついている。高さ四十フィート、いやそれ以上あるだろうか? 俺の頭に、昔どこかで聞いた巨鳥の昔話がよぎったが、命の危機を前にして直ぐに搔き消えた。
鳥の羽ばたきが起こした風で、俺の掴んでいたロープは千切れそうな音を立ててしなった。ロープを掴む俺の手も限界が近く、ぎりぎりと痛みが走る。
数分か十数分のように感じたが、本当はたった数秒間のことだったかもしれない。どれほどの時間が経ったのかは分からなかったが、船の揺れは先程よりゆるやかになった。鳥は姿勢を落ち着けたようで、こちらの方を見ても攻撃してくる様子はない。首をかしげて、その青くぎょろぎょろした瞳で俺を見た。ずぶ濡れになった体でも冷や汗が出るのは分かる。奴がこのまま落ち着いて飛び立つのを待てば、あるいは助かるかもしれない。
辺りを見回すと、まだ揺れている甲板には浅い波が立っていた。板のあちこちに小さいヒビや穴が開いて、その下へ海水が流れ込んでいる。この船の最重要とも言える積み荷は、おそらくずぶ濡れで無事ではないだろう。
自分の命よりも、荷を確実に運ぶことが重要なのだ、というのは船長の口癖だった。
俺ははっとした。船長は無事なのか? 乗組員のうち、どれだけの人がまだ船上にいるんだ――。
そう思った瞬間。高くつんざく発砲音が、波の音を掻いくぐって鳴り響いた。
鳥は慌て体を浮かせる。鉤爪が甲板を離れると同時に、揺れが止みかけた船体がまた大きく振れた。俺は血の滲む手でロープを再び握り締め、音のしたほうに目をやった。
片手に銃を持った航海士が、絶望した顔で鳥を見ていた。そうだ、奴はいつも余計なことばかりする男だった。
鳥は船側に捕まろうとしたのだろう。船は大きく傾き、やがて上下方向すらも見失った。海面が近付く。
ああ、暗――。
畳む
書き途中のお話に入れるか迷って結局入れないことになった文章。
せっかくなので少し整えて置いておく。
ロクと出会った人間の話。
ある船乗りの見た景色
ありゃ何だ!? 鳥……鳥だって? あんな大きさの鳥があるもんか! いや違う、見間違いじゃねえ!
――二時の方向から巨大な鳥だァ!
マストの見張り台から聞こえた声。その瞬間ちょうど甲板の掃除をしていた俺は、直ぐにその方角に目をやった。雲を背に空に浮かぶそれは影になってよく見えなかったが、鳥だった。そして確かに、海鳥とは明らかに違う飛び方と輪郭をしている。俺は数秒後に気付くことになった。その鳥の近付いてくる速さと、異様なまでの大きさに。
船長はあらんかぎりの声を張り上げて俺たち船員に指示を出し、俺たちもそれに応えた。しかし鳥の急接近は目にも止まらぬ速さで、船の進行方向を変えるのすら間に合わなかった。大砲も空をきる。
太陽はにわかに巨大な翼に覆い隠されたかと思うと、次の瞬間には俺のすぐ真後ろに鱗の脚と鉤爪が迫っていた。
雷かと思うほどの、大きく割れるように軋む音。一瞬で終わりを覚悟するほどに傾く船体。身の丈の何倍も高く上がる水しぶき。
俺は本来ならすぐ振り落とされそうな場所にいたが、運良くロープを掴むのに間に合った。大きく揺れ動き続ける船体に必死でしがみつき、上を見上げる。
巨大なワシのような鳥が、ばさばさと羽を振って船にしがみついている。高さ四十フィート、いやそれ以上あるだろうか? 俺の頭に、昔どこかで聞いた巨鳥の昔話がよぎったが、命の危機を前にして直ぐに搔き消えた。
鳥の羽ばたきが起こした風で、俺の掴んでいたロープは千切れそうな音を立ててしなった。ロープを掴む俺の手も限界が近く、ぎりぎりと痛みが走る。
数分か十数分のように感じたが、本当はたった数秒間のことだったかもしれない。どれほどの時間が経ったのかは分からなかったが、船の揺れは先程よりゆるやかになった。鳥は姿勢を落ち着けたようで、こちらの方を見ても攻撃してくる様子はない。首をかしげて、その青くぎょろぎょろした瞳で俺を見た。ずぶ濡れになった体でも冷や汗が出るのは分かる。奴がこのまま落ち着いて飛び立つのを待てば、あるいは助かるかもしれない。
辺りを見回すと、まだ揺れている甲板には浅い波が立っていた。板のあちこちに小さいヒビや穴が開いて、その下へ海水が流れ込んでいる。この船の最重要とも言える積み荷は、おそらくずぶ濡れで無事ではないだろう。
自分の命よりも、荷を確実に運ぶことが重要なのだ、というのは船長の口癖だった。
俺ははっとした。船長は無事なのか? 乗組員のうち、どれだけの人がまだ船上にいるんだ――。
そう思った瞬間。高くつんざく発砲音が、波の音を掻いくぐって鳴り響いた。
鳥は慌て体を浮かせる。鉤爪が甲板を離れると同時に、揺れが止みかけた船体がまた大きく振れた。俺は血の滲む手でロープを再び握り締め、音のしたほうに目をやった。
片手に銃を持った航海士が、絶望した顔で鳥を見ていた。そうだ、奴はいつも余計なことばかりする男だった。
鳥は船側に捕まろうとしたのだろう。船は大きく傾き、やがて上下方向すらも見失った。海面が近付く。
ああ、暗――。
畳む
#銀嶺の獣ゼルデデと人間の話
※野生動物の狩猟、キャラクターの流血表現を含みます
オオカミが怪物と出会った、初めての冬が終わろうとしていた。
そのとき怪物は川まで水を汲みに外へ出て、オオカミもその後について歩いていた。
太陽は白く濁った雲に覆われて見えなかったが、おそらく空の天辺を少し過ぎた頃だろう。昨日の午後から雪は降ったり止んだりを繰り返していた。
辺りの景色はまだ分厚い雪に覆われていたが、麓のほうを見れば、以前より少し雪の白が減っているように見えた。怪物の家からは、その雪解けの境目が日に日に山腹を登ってくるのがよく見えた。
背の高い怪物は、その枝角がぶつからないように器用に木々の間を抜け、斜面をずんずん歩いていく。オオカミははぐれないようにその背中をせわしく追った。白い雪に、蹄と肉球の足跡が残される。
やがていつもの水汲み場に近いところまで来ると、怪物は口を開いた。
「おい」
その無愛想で短い呼び掛けに、オオカミはバウッと鳴いて応える。
「昨日かけた罠の様子を見てきてくれ」
オオカミはまた短く一度吠えて、言われた通りに、仕掛け罠があるほうへ駆けていった。
彼は未だ怪物と会話をすることは叶わなかったが、怪物の方はオオカミが自身の言葉を解しているようだということが、多少なりとも分かってきていたようだった。それでここ何日かかけて、オオカミはようやく簡単な意思を伝えることができるようになっていたのだ。イエスなら短い吠えを一度、ノーなら短くうなる、といった具合である。
オオカミはもっと自分の考えをはっきりと伝えたいと思っていたが、怪物のほうがいつも必要最低限のことしか喋らないので、これ以上の会話は不可能だったのだ。
(もっと色んなことを話したいのに。あいつの正体だって、名前だって、何にも知らないんだから!)
そう考えながら、彼は木々と雪の間をすり抜けて進んでいった。昨日の記憶と匂いの痕跡を頼りにしながら、いくつかの地点を確認して回る。
昨日怪物が仕掛けたくくり罠には、ほとんど何もかかっていなかった。そのうちの一つにはイノシシの足跡が残されていたが、罠に気づいていたのか、辺りを警戒して避けていった様子が見てとれた。
(ここもだめ……ここもか。残るはあと一つだ)
獲物がいないことが分かると、すぐにその場から離れる。オオカミは最後の罠を確認しに向かった。
目的の地点に近付くと、雪で縁取られた黒い木々の向こうに、何かが動いているのが見えた。それが動くたび、辺りの白い雪がぱっ、ぱっと飛び散る。
それを見て、オオカミは反射的に藪に身を隠した。瞳孔を開き、息をひそめる。
(ウサギだ)
白い塊が、後ろ足を地面の罠にとられて暴れていた。掴まってからあまり時間は経っていなさそうだ。
ひとつ、ふたつ、と呼吸を数えながら、意識を研ぎ澄ませる。
(――今だ!)
オオカミは木の影から勢いよく飛びかかった。
相手に向かったその大きな牙は、小動物の首元をまっすぐ捉えた。彼は暴れる体を前足でしっかりと押さえこみ、ウサギの細い首筋に牙をぐぐっと押し込んだ。
温かい血が白い毛皮を伝い、雪を赤く染める。
ウサギはしばらくの間激しくもがいていたが、やがてじっと動かなくなった。四肢の力が抜けて、だらりと雪の上へ垂れる。それを確認してようやく、オオカミは獲物から口を離した。
(やったぞ。あいつに教えなきゃ)
群れにいた頃はいつも白い目を向けられていた狩りの腕前だが、今のような生活なら役に立てられる。そのことはオオカミに自信を与えていた。
オオカミが遠吠えしようとしたその瞬間、ピィーッと高い音が空につんざいた。鳥の声にも似た音だが、今の季節のこの山に、あんな鳴き方をする鳥はいない。オオカミには、その音の正体がすぐに分かった。
(あいつの笛の音だ)
それは少し前、怪物がオオカミの目の前で吹いて見せたものである。確かあの時は
「これを鳴らしたら、おれのもとへ来い。……お前がどれほど理解してるのかは、分からんが」
と、そう言われたのだった。
勿論このオオカミはその時言われたことを理解し、そしてしっかりと覚えていたのだが、今ここを離れるわけにはいかなかった。彼の前足では獲物のウサギを罠から取り外すことができなかったし、かといって新鮮な肉を置いていくのも惜しかったのである。
そこでオオカミは何度か空に向かって吠えた。声は白い空にしんと響く。
少しもしないうちに、怪物は斜面をずんずん登ってやって来た。少し早い足どりは、一切の迷いなくオオカミのもとへたどり着いた様子を示していた。
怪物はオオカミと、その足元で息絶えたウサギを順番にちらりと見て
「捕れたか」
と呟いた。オオカミが軽く吠えて答える間もなく、慣れた手付きでウサギを罠から外す。獲物の脚をロープで手際よくまとめ、自分の腰紐にさっさと結びつけながら、怪物は言った。
「これだけか?」
オオカミはその通りだと言うように吠えて答えた。怪物は僅かに頷くとさっと立ち上がり、休む間もなく足早に歩き出した。
それは家とは逆の方向だった。よく見れば腰に下げられた水汲み樽も空である。怪物はオオカミが着いてくるのを横目でちらりと確認すると、またぼそりと言った。
「用事ができた。……少し急ぐ」
怪物は、それ以上は何も言わなかった。オオカミは黙って着いていきながら、こう考えた。
(普段より少し、落ち着きがないみたいだ)
それは、獲物を扱う時の怪物の視線の動きや手付き、それに今の歩き方なんかから、なんとなく感じられるのだった。普段と比べるとほんの僅かな違いだが、オオカミが知るこの数ヵ月間では初めての様子だった。
怪物はほとんど立ち止まることなく歩いていった。
この辺りは倒木や低木が雪に隠れて歩きづらいにも関わらず、一切の迷いのない進み方だった。まるで、どこを踏めばいいのか全て分かりきっているかのようだ。オオカミは怪物が作った雪道をなぞるように、足跡を重ねながら歩いていく。普段より悪い足場を構わず進んでいくところを見るに、本当に急いでいるようだった。
怪物の言う通り、その道のりは随分と長かった。
山脈の向きに沿うように、それでいて少しずつ標高が低い方へ進んでいく。普段の行動範囲を大きく外れていて、オオカミも初めて来るような場所だった。
怪物は時折立ち止まっては、トナカイのような耳を立ててじっと何かを聞きとり、また歩き出すのだった。
オオカミは、怪物のこの行動の不可解さはさておいて
(こいつの縄張りはずいぶん広いんだな)
と素直に感心するのだった。
日が傾き、木々の下に薄暗さが立ち込めはじめた時、怪物はふと歩みを遅めた。オオカミがちゃんと着いてきているのを見ると
「この辺りだ」
と小さく呟く。まるで独り言のような言葉だったが、それは状況が一切分かっていない自分のために言ってくれているのだろう、とオオカミは理解した。
怪物は辺りを見回し聞き耳を立てながら、上着の中からあの仮面を取り出した。黒っぽく硬い素材で出来ていて、目のところに細い隙間が開いている奇妙なものだ。
怪物はそれを顔に着けると、また辺りに注意を配りはじめる。
オオカミはこれまでの観察から、その仮面が何のためのものなのかを考えていた。
(あの顔のやつ、一体何なんだろうか。これまでは天気が良い日によく着けるから、眩しいのかと思ってたけど……今は夕方の曇りなのに、どうして着けるんだ?)
しかし、その推理と新たな疑問は、すぐに頭の隅に追いやられた。
目の前の怪物が、不自然にぴたりと立ち止まる。オオカミの視線はまず怪物に向かい、それからその視線の先にと移った。
そこにいたのは一匹の生物だった。
オオカミにとって初めて見るその生物は、なかなか奇妙なものだった。
二本足で立つ姿はすぐそこにいる怪物によく似ているが、より小さな背丈で、頭の角もない。脚もトナカイのようなものとは違って細くまっすぐ縦に伸びて、足先は分厚い布で覆われているようだった。腕には、先に布が巻かれた木の枝が握られている。
怪物と比べると、随分と小さく細く、弱々しく見える。
その姿を見たオオカミの脳裏に、ひとつの単語が浮かんだ。
(あれは、人間だ)
何気なくそう思ったことを飲み込みかけて、いや、と首を振る。自分自身に対するひとつの疑問が浮かんできたのだ。
(オレは人間を知っている……? 初めて見るのに、どうして……)
それが何故なのかという問いは、瞬間、耳につんざく叫び声で搔き消された。
「ひっ……こ、殺さないでくれ!」
人間はその叫びと同時に、手に持った棒を振り回しながら一歩後ずさった。懐を探るものの、ぶるぶると震える手では何を取り出すこともできない様子だった。目を見開き、歯をがちがちいわせている。
怪物はまったく対称的な落ち着き払った様子で、人間に語りかけた。
「殺す気はない。そこは足場が悪いから、こっちへ来い」
オオカミはその言葉で初めて、人間の背後からごうごうと滝のような音が響いているのに気がついた。おそらく崖の向こうが、急な川にでもなっているのだろう。人間が向こうへ逃げていこうとしないのも、それで合点がいった。
それでも人間は動こうとせず、怪物を追い払おうとするかのように、木の枝をむやみやたらに振り回した。
途端、人間の足が雪の下の岩でわずかに滑ったようだった。体勢がぐらつき、片方の足を踏ん張る。しかしそれが切っ掛けとなったのだろう。
人間の足元の岩が、がらがらと川の方へ崩れる音がした。
(大変だ、助けなきゃ!)
咄嗟にそう考え、オオカミの脚は駆け出した。一直線に向かえば間に合う――。
しかし、彼の牙は人間の服を掴むことができなかった。オオカミは川に落ちるすんでのところで踏みとどまり、頭上を見上げる。
さっきまで目の前にあったはずの人間の足が、今は頭上に見えたからだ。
オオカミが人間の服を咥えるよりずっと速く、怪物の手が、人間の首根っこを掴み上げていたのだ。
「……だから、足場が悪いと言ったのだ」
怪物はかすかな溜め息とともに、そう呟いた。
服の首元を掴まれ、細く頼りない足先はわずかに地面から浮いた。その人間が持っていた棒切れは、足下に広がる川に落ちていった。人間の口からは
「ひ……うっ……」
と、小さな音のような声が漏れるばかりだ。その視線は泳ぎ、手足は震えている。
怪物は人間が落ちないように――あるいは、崖下の川を覗き込もうとでもしたのだろうか――小さな身体を持ち上げたまま自身のほうへ引き寄せ、わずかに身を乗り出した。
その時、人間の上着の下に隠れた腰元から、銀色の鋭利な切っ先がちかっと光った。
――オオカミにとってさえも、一瞬の出来事だった。
それを払い落そうと飛び掛かる間もなく、ナイフは怪物の腹へ、真っ直ぐ突き立てられた。
怪物の体がわずかに震え、息が詰まる音が聞こえる。紺に染められた毛皮が、刃物の縁からじわりと黒く染まった。
しかし、それだけだった。怪物の仮面の下に覗く表情には、一切の動揺が見られない。人間を持ち上げたままの腕もびくともしなかった。息を止めた一瞬にちらりと自分の体を見ただけで、あとはただまっすぐ、人間を見据えていた。
やがてゆっくりと吐き出される息が、白く染まる。
人間はその様子に気が付くと、みるみる青ざめていった。
震えた小さな手が、刺さったままのナイフの柄からこぼれ落ちた。
腹に刺さった刃物をそのままに、怪物はゆっくりと二、三歩下がると、人間を地面に下ろした。腰が抜けた人間はそのままへたり込み、巨大な姿を見上げるばかりだ。
怪物はゆっくりと、言い聞かせるように言った。
「これは無駄なことだ。俺は、お前に危害を与えない。話を聞け」
それから小さく息を吸い、大きな手が細いナイフの柄を掴む。怪物がゆっくりと自らの腹から刃を引き抜くと、服に空いた穴から赤黒い液体がどくりと漏れだした。
静かに流れ出る血によって毛皮の染みはあっという間に広がり、服に施された模様をも次々と赤くしていた。
オオカミの鼻腔に、鉄っぽい匂いが充満してゆく。
(おい、かなり血が出てる! このままじゃ死んじまうぜ!)
彼はそれを伝えようと必死に何度も吠えたが、怪物はかすかに口元をしかめて
「うるさい。俺は人間は殺さんし、食いもせんぞ。お前にもやらん」
と言うばかりだった。
(ああ、もう! そんなことが言いたいんじゃないんだよ、オレはお前のほうを心配してるんだ!)
オオカミは歯がゆい思いでいっぱいだった。もし今怪物と同じ言葉を喋ることができたら、どんなにありがたいだろう! しかしそれは彼にとって、空から食事が降ってくるとか、急に狩りが上手くなるとか、そういった事と同じくらい望めないことだった。
彼はつい吠え続けながらも、焦る頭で考えた。今のオオカミには、ひとまず自分も人間の味方だということを示す必要があった。そこで、雪の上に尻餅をついたままの人間のもとへ歩み寄り、くうんと鳴いたり、そっと鼻先でつついたりするのだった。
怪物はそれを見て軽く鼻を鳴らし、人間に向き直って静かに言った。
「山道に迷ったのだろう。送ってやる」
人間は視線を泳がせたまま、何かよく分からないことをぶつぶつと繰り返している。ろれつも回っていないようで、オオカミにも何も聞き取れなかった。
怪物は少しの間それに耳を傾けていたが、やがて
「疲労で判断力が鈍っとる」
と呟いた。
彼は毛皮で雑に拭いたナイフを腰帯に留めると、人間を軽々と持ち上げて小脇に抱え込んだ。腕をしっかりと押さえ込むような姿勢にされ、呆然とした人間はされるがままだった。
怪物が立ち上がる瞬間、オオカミは自分の目と鼻を疑った。怪物の巨体が立ちくらみのようにほんのわずかにふらついた――にも関わらず、その腹の傷からは、もう古い血の匂いしかしなくなっていたからだ。服を伝う血液の流れも、もう止まっていた。
戸惑うオオカミに、怪物は低く声を掛ける。
「おい、寝る場所を探すぞ」
オオカミははっとして、ひとつ吠えた。
夜の闇はあっという間に迫ってくる。夜営するための場所を探し始めてすぐ、川の上流に窪んだ岩壁があったのは幸運だった。
冷たい空気をすべて防ぎきれるわけではないが、風が当たらない場所もある。怪物は一番奥に人間を下ろし、その手前で火を焚いた。辺りには岩も木の枝も沢山あったから、火床を作るのも簡単だった。
それから怪物は自分の上着を脱ぎ、人間に差し出した。
「さっきの血がついとるが、ないよりはましだろう」
断る気力もない人間は、黙って重たい上着を受け取る。手に取ってすぐにその匂いに顔をしかめたが、仕方ないと諦めた様子でのそのそと背中に被せた。
オオカミは上着に潜り込み、人間の背中に密着するように寝そべった。息を飲む音が背中越しに聞こえたが、怪物は作業の傍らでその様子を見やって言った。
「そのオオカミは大丈夫だ。……おおかた、そいつの親切心で体温を分けてやろうとでもしてるんだろう」
オオカミは顔を出し、機嫌良くひと鳴きした。
(その通りだよ! よく分かってるじゃないか)
怪物の言葉を信じきれない様子の人間は、まだオオカミのほうをちらちらと見ながら体をこわばらせていた。それでも焚き火で体が温まってくるにつれ、緊張はほどけていったようだった。体の震えもおさまっていた。
辺りが本格的に暗くなり、焚き火が投げる光だけが森の中に残り始めた。闇の中に雪がちらつき始める。聞こえるのは、少し遠くを流れる川のうなりと、枝が燃えるかすかな音、そして怪物の立てる物音だけだった。
怪物は昼間のウサギを雪の上で捌いてきたようだった。骨が付いたままの肉を弱火にかけ、その一方で雪を溶かして水を作る。火の隅の平らな石の上では内臓が焼かれている。その匂いにオオカミは涎が止まらなかった。
怪物の手際の良い行動のすべてを、人間はじっと黙って見つめていた。何を感じ、考えているのか、オオカミにはまるで分からなかった。
怪物は焚き火を挟んでどっしりと座り込むと、口を開いた。
「飯を食って寝れば、明日には回復してるだろう。……村へ送ってやる、どこの出だ」
「……ウザト」
人間の答えに、怪物は仮面の下で満足げに頷いた。
会話はそれきりで、再び静寂が訪れる。
やがてウサギに火が通ったのを見ると、怪物はぼそりと
「いいだろう」
と呟いた。懐から包みを取り出して、中の小さな硬いパンをいくつか人間に投げ渡し、こんがりと焼けたウサギの後ろ脚を一本差し出した。
「血抜きが足りんから臭いだろうが、死ぬようなもんじゃない。食え」
人間は受け取った肉と怪物を交互に見やると、ごくりと息をのんだ。おそるおそる口をつけた――と思うや否や、がつがつと夢中で食べ始めた。どれだけ飢えていたのかと驚くほどの食べっぷりに、横で同じものを食べているオオカミさえも目をみはる。
最初の肉もパンもあっという間になくなり、怪物は次の一切れを差し出した。人間はもう躊躇することなく、その恩恵に食らいついた。
一方で、怪物はほんの少しの肉と内臓に手を付けただけだった。いくらかをオオカミのために取り分けて冷まし、それ以外のほとんどを人間に食べさせた。
オオカミにとってはそれほど多い食事ではなかったが、内臓を半分分けてもらったことでとても満足していた。
(オレは生でもいけるんだけどな。でもまあ、焼いたのも案外悪くない)
オオカミが自分用の肉をぺろりと平らげて満足げに横たわるそばで、怪物は木彫りの小さなカップで沸いた湯を掬い、
「冷まして飲め」
とだけ言って人間に手渡した。
受け取る瞬間、人間はとても不思議そうな顔をして、怪物の顔をじっと見つめていた。堅牢な仮面の下は、瞳の色はおろか眉の動きすら読めない。それでも何かに気付いたらしい人間は、やがて一つの質問を投げかけた。
「……お前、ゼルデデか」
その言葉に、オオカミは耳をぴんと立てた。
怪物の表情は相変わらず読めないが、動揺する様子もなければ、否定の言葉も出なかった。普段と全く同じ様子で、静かに口を結んでいる。
(こいつ、ゼルデデって名前だったのか)
怪物は何も言おうとしなかったが、人間がいつまでも返事を待っているのを見て、やっと諦めたかのように言葉を漏らした。
「だったら、どうした」
いつも通りの低く擦れた声だ。だがオオカミには、その響きに疲労のような、少しの憂いが混じっているように感じられた。
人間は納得した様子で何度か静かに頷くと、また口を開いた。
「村のじいさんが、よく言っていたんだ。山奥にはゼルデデという巨人がいて、迷いこんだ人間を襲うんだと」
オオカミはちらりと怪物のほうに視線をやった。
(人間を襲うだって? 確かに見た目は怖いやつだが、そんなことないぜ)
そんな思考を知るよしもなく、人間は肩を軽くすくめて続けた。
「どうせ俺らを山奥に立ち入らせないためのお伽話かと思っていた。山の巨人だなんて、ありきたりな伝承だと。しかし、いざ山道を見失ってしまうと、本当に怖かったんだ。下山しようと歩き続けても村に戻れなくて、天気も悪くなりやがる。やっと見つけた川に沿っていくら進んだが、帰れる気配が一向に感じられないんだ」
先程までのことを思い出したのか、人間の声はか細くなり、その指先は震えていた。
「何度、もうだめだと思ったか知れない。でも、だ。まさかあのゼルデデが本当に居たなんて……しかも、こんなに親切にしてくれるなんて、思ってもみなかった」
ゼルデデはなおもじっと黙りこくり、人間が話したいようにさせていた。人間はにわかに仮面の顔を見据えて言った。
「皆、お前のことをほら話の怪物だと思っている! でも事実は違う。俺はこうしてお前の親切に命を助けられている。お前は本当は善人なんだろう? 俺は、村に帰ったら本当のことを話すよ。ゼルデデは本当に居るんだと、人間の味方なんだと、皆に伝えようと思うんだ」
長い髪の下で、怪物の耳がぴくりと動いた。
「お前の言い伝えは、他の村でも――」
人間が続けようとしたその言葉を遮って、ゼルデデは低く、しかしはっきりと言い放った。
「ありがたいとでも、言うと思ったか」
人間は戸惑い、言葉を失った。怪物の声色には、オオカミがまだ聞いたことがない怒りの様子が感じ取れた。
ゼルデデはまた黙ってしまった。少しの沈黙が流れ、焚き火の音が岩壁に響く。
やがて怪物は口から長いため息を吐き出したかと思うと、無愛想にこう言った。
「俺がいるからって、気軽に山へ入られるようになったら、手間が増えて迷惑な話だ。訂正する必要など、ない」
オオカミは黙って聞き耳を立てていたが、怪物の言い分には納得を覚えていた。
怪物が何故こんな場所に住んでいるのかは、未だ謎だった。それでも今日、こうしてわざわざ長い距離を歩いて、こいつは人間のもとへやって来たのだ。
このゼルデデという男は、きっと人間のことを嫌っているわけではないのだろう。むしろ自分の力をもってして助けたいとすら思っている。だからこそ、彼らがこの山に入ってみすみす危険を冒すようなことが、あってほしくはないのだ。
(どうして人間のこと好きなのに、人間と暮らさないのか……それは謎だけどさ)
でも、と人間は口を開いた。
「でも……でもお前は確かに俺の命の恩人だ。村に帰ったら礼をする……それに、さっき刺した詫びも、させてくれ」
たどたどしい言葉だが、その目はまっすぐに仮面の隙間を見つめていた。それでもゼルデデは首を横に振る。
「恩も礼もいらん。人間が俺の縄張りで死ぬのを、見たくないだけだ。腹の傷も、塞がった」
そう言いながら、脇腹のあたりを静かにさする。黒っぽく染まった毛皮は乾ききっていて、もうしばらく新しい血が出ていないことを教えていた。
ゼルデデは
「もう寝ろ。明日は早い」
としか言わず、人間も何も返さなかった。
やがて、完全な夜が訪れた。人間の小さな寝息が聞こえる中、オオカミはどうにも眠れずにいた。雪は暗闇の中をしんしんと降り続けている。
ゼルデデは今晩は寝るつもりがないようで、静かに火の面倒を見ていた。仮面を外した顔が、弱い火にぼんやりと照らされている。
その瞳は青かったが、光の加減のせいか、わずかに金色に光っているようにも見える。ここ最近の怪物の瞳は、よくそういう不思議な色をしていた。オオカミはその色合いから目が離せなかった。
その目がゆっくりと周囲を見渡し、やがてオオカミの目と合う。
怪物は人間を起こさないためか、囁くように言った。
「お前もとっとと寝ろ。明日は日の出前に出る」
うつ伏せに寝そべったオオカミは、小さくくぅんと鳴いた。怪物は特に何の反応も返さなかった。オオカミはじっと、闇を背後にした怪物の姿を見つめていた。
怪物は夕方のことを思い出しているらしかった。上着よりずっと血の染みが広がった脇腹をさすり、顔をしかめる。痛みというよりは、どこか思い悩むような表情に思えた。その口から、聞き取るのもやっとな、独り言のような言葉が漏れる。
「あいつが刺したのが俺で、よかった。もしあいつが、自分に刃を向けるなぞしていたら……」
ゼルデデの喉元はわずかに震え、それ以上先のことは言わなかった。その瞳を炎越しに見ながら、オオカミはうとうととし始めた。
(こいつはただの動物じゃない。オオカミでも人間でも、トナカイでもない。でも確かにオレの仲間だし、人間の味方だ。一体何なんだろうか)
その答えなどなく、小さな呟きだけが、夜闇にぽつりとこぼれる。
「帰ったら、また服を縫わなきゃならん……」
オオカミは眠りに落ちるまで、怪物の焚き火の音に耳を傾けていた。
翌日の早朝、彼らは夜営地を後にした。
日の出よりも前、まだ空の群青がようやく白に霞み始めたくらいの頃だ。空の雲は昨日までよりずっと減っている。仮面の怪物、人間、オオカミの順に縦に並び、彼らは歩き始めた。
ゼルデデは、春先の滑りやすい雪の中を躊躇なく進みながら、時折ちらりと振り返り、人間の歩きを気にしているようだった。それでも人間にとってはかなり速かったようで、追い付くために何度も止まってもらう必要があった。オオカミは、足場の悪いところで人間の背を頭で押してやったり、転びそうになるのを支えてやるのだった。
道のりは長かった。この人間はこの森で迷い果ててしまってから、相当な距離を彷徨ったのだろう。それでも怪物は辺りの地形を知り尽くしているのか、足場が厳しいところを避けてなお、後戻りや余計な迂回はほとんどしなかった。
障害を避けられない時――例えば、雪解け水で増水した小川を渡ろうとする時は、怪物が一人と一匹を抱えて越えていった。そんな時、凍りそうなほど冷たい水に脚が濡れることは、意にも介していないようだった。人間が礼を言っても、怪物は黙ったまま歩みを進めるのだった。
彼らは昼に一度だけ休憩を挟んだ。
少し森が開けた岩場に立ち止まり、人間を休ませると、ゼルデデは
「弓矢を貸せ。何か獲る」
と声をかける。おずおずと差し出された弓を受け取って少し眺めると、オオカミを連れてその場を離れた。
オオカミにとって、怪物との狩りはもう慣れたものだった。自分は獲物の匂いを嗅ぎとって、それをうまく追い詰めればいい。シカなんかの群れを見つけると追い立てて、はぐれた個体をさらに追う。そうすれば怪物の弓が的確に獲物を仕留めるのだ。
この時は、産まれてから一歳に満たない若いシカを一頭狩ることができた。矢は見事に心臓に命中し、シカは少し走った先でばったりと倒れていた。
ゼルデデはさっと駆け寄り、脚を震わせるシカの頸動脈を切った。辺りの雪が真っ赤に染まる。それから腹を捌き内臓を取り出し、中の血汚れを新鮮な雪で拭き取った。
ゼルデデは手際よくそれらの処理をしながら、不満げに
「弓が小さすぎたな。いつものなら……」
と独り言をぶつぶつと呟いていた。
(確かに弓はいつもの半分以下の大きさだけどさ。獲れたんだからいいじゃないか)
オオカミは取り出された暖かな内臓に食らいつきながら、そう呑気に考えていた。
怪物はシカの前肢を片方切り取ると、残りを担ぎやすいようにロープで縛った。
ふたりが戻ると、人間は大層安心した様子を見せた。一人きりの間、よほど心細かったらしい。
切り取られたシカの脚は少し捌かれ、火にかけられて人間の昼食になった。仕留めたてで硬さがあるはずだが、人間はそんなことは気にならないとでも言うように旺盛に食べた。
食べきれなかった骨付きの肉を布に包みながら、人間は言った。
「昨日言われた通り、俺はお前の話をしないことにする。でもせめて、村に帰ったら礼はさせてくれないか! 村に入りたくないと言うのなら、俺が森まで運んでくるよ。食料でも道具でも、何でもやる!」
その言葉に、尚もゼルデデは
「いらん」
と冷たく返すばかりだった。人間は不満そうだったが、怪物の態度は岩のように揺るがなかった。
道中、怪物はふたりに何度か休憩と食事を挟ませたが、自身は少し遠くで立っているだけで、何も口にする様子がなかった。オオカミは
(お前は腹が空かないのか)
と訊ねようと鳴いてみせたが、怪物は
「帰りの道筋なら心配いらん。迷うことはない」
と返すのだった。オオカミはまた言葉が通じないもどかしさを覚えるばかりだった。
彼らは同じ調子で歩き続けた。やがて日が傾き、森に影が差しはじめる。
(そろそろ寝る場所を探さなきゃならないんじゃないか。夜になっちまうぜ)
オオカミはそう考えたが、怪物は歩みを止める様子がない。
その時だった。
「ここだ!」
突然人間が叫び、立ち止まった。かと思うと、彼はゼルデデを追い越すように駆け出した。
「ああ、この景色だ! この目印も村のものだ……! ここまで来れば思い出せる、俺はあっちから歩いてきたんだ!」
人間は足早に雑木林の中に歩み入り、感慨深い様子で辺りを見回した。
高ぶった様子の人間をよそに、ゼルデデは音もなく踵を返し、森へと歩き出す。礼を聞く前に立ち去ろうとするかのような、躊躇のない歩みだった。
(も、もう行くのか)
慌てて怪物の背を追おうとして、オオカミの脚は一瞬立ち止まる。その金色の瞳は人間のほうを向いていた。
(オレがあいつ……ゼルデデの元にいるのは、あの時、あいつの言葉が理解できたからだ)
オオカミは考えた。あの吹雪の日、怪物と出会った時のことを思い出す。
(でも、オレはこの人間の言葉も聞き取れた。それなら――オレは、人間と一緒に暮らすこともできるんじゃないか? オレは本当は、あいつと一緒にいる理由はないんじゃないか)
そこまで考えて、それは違うな、と思った。
(オレはあいつに、言葉以上のつながりがある気がするんだ。仲間みたいな、同じ群れの仲間みたいな……)
銀色の、孤独な獣。
未だ分からない怪物の正体だが、オオカミは彼にただならぬ親近感を覚えていた。この広大な山地で出会えたこともきっと偶然ではないのだろうと、彼の直感が告げていた。
オオカミは人間に背を向けて、怪物の姿を追って走り出した。音もなく、木々の間に気配を消してゆく。
オオカミも怪物も、振り返らなかった。
ゼルデデの名を呼ぶ人間の声が、夕暮れの雪山に何度も響いていた。
畳む