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#銀嶺の獣
アルとゼルデデの出会いの話
 ひどい吹雪だった。
 雪はまるで波のように、絶えずごうごうと辺り一帯に打ち付ける。木の幹は雷のような音を立ててしなり、風は耳元で渦巻いた。吹雪は容赦なく、その冷たさを身体の芯まで染み渡らせようとしてくる。耳や指の先が痛み、感覚が鈍くなっていくのを感じていた。
 銀の毛並みに白い雪が張りつき、周囲の景色に溶けてゆく。
 一匹のオオカミは針葉樹の大木の根本に体を伏せたまま、その体の上に冷たい雪が積み重なるのをじっと動かずに耐えていた。いっそ穴でも掘って雪の中に身を隠した方が、この厳しい風を凌げるであろうことは分かっていた。しかし、もう自力で穴を掘るだけの体力も残っていなかったのだ。
 やがて、雪と毛皮の見分けがつかなくなりそうになってきたその時、耳がわずかに動く。
(……遠くで雪崩が起きたか)
 まぶたをほんの少し持ち上げてみる。目に入る景色は相変わらず、斜めに吹き荒れる雪で真っ白だった。
 オオカミは再び目を閉じ、鼻の先を雪の中にうずめた。
(ここもいつ吞まれるか分からない。だけど、動いても動かなくても同じことだ。体は冷えたし、お腹も空いたし……さっきから眠くて仕方がない。もうオレは――)
 その先の言葉を考えると、既に冷え切った背筋がさらに凍り付きそうに震えあがった。
(いや、まだだ。まだオレは死にたくない! こんな場所で、ひとりっきりで凍え死んでたまるものか!)
 自分自身を鼓舞するように、彼は頭の中でそう繰り返した。しかし、それでも状況が好転するわけではない。雪は銀の毛皮の上に白い層を重ねていき、全身の温度を奪っていく。穴を掘るどころか、立ち上がる気力すら湧かなかった。
 その時、周囲の唸るようなざわめきに混じって、木の枝の軽く擦れる音がした。
 タイミングも大きさも、風が揺らすものとは全く違う。その音は確かに、何者かの気配を伴うものだった。
 オオカミははっと意識を取り戻し、目を見開いた。毛深いまぶたから落ちた雪が、あっという間に風に飛ばされる。
 彼の目の前には巨大な、それは巨大な縦長い影がひとつ、ぬっと立ちはだかっていた。
 咄嗟に立ち上がり威嚇の姿勢になった――つもりだったが、痩せた細い脚は自分の体を持ち上げるのがせいぜいだった。身体はがくがくと震えるばかりで、何の警戒心も示せない。その謎の怪物を睨みつけ、唸り声をあげるのがせいぜいだった。
 雪が視界を邪魔して、相手の顔は一切見えない。ぼんやりとしたシルエットが、薄暗い中に浮かぶばかりだ。
(熊か……? いや、角がある。でも、トナカイだとしても大きすぎるぞ)
 焦るなか、思考は上手くまとまらなかった。目の前のその生き物は、これまでに見たことのある大型の生き物のどれとも違っていたのだ。しかし、自身の身に危険が迫っていることは明確だった。野生の本能が、自らにそう告げていたのだ。
 牙をむき出して必死に唸っていると、その影は口を開いた。
 風の音の合間にどっしりと低く響く、静かな声だった。
「オオカミか……まだ若いな。群れからはぐれたのか」
「!」
 彼は息をのんだ。一匹のオオカミの身に、その言葉は鋭く突き刺さる。
(違う、はぐれたんじゃない、俺から離れたんだ!)
 オオカミはそう叫ぶように、歯茎をむき出して、より激しく唸った。しかし、巨大な相手は怯むどころか、一切の動く様子すら見せなかった。
 びゅう、と鋭い音を立てて風向きが変わる。一瞬の向かい風に巨大な怪物の匂いが乗って、オオカミの鼻まで届いた。つんとするほど冷たい空気に混じったわずかな匂いを、彼の鼻は正確に嗅ぎとった。
(なんだこれ、変な匂いだ。鹿でもあるし、熊でも、オオカミでもある……それから、焼けた木みたいな。他にも色々混ざってる。こんなの、どこでも嗅いだことない)
 オオカミがそうして考える数秒の間に、怪物はゆっくりと踵を返していた。
「……ふん、可哀想にな」
 そう吐き捨てて、それは億劫そうにのそのそと元来たほうへ歩き出す。強風の中を何でもないように進んで、その影は段々と吹雪の中にのまれゆく。白い地面に残された、トナカイに似た幅の広い蹄の足跡も、あっという間に風にかき消され始めた。
(あいつ、俺を食う気じゃないのか)
 オオカミはどこか呆然としながら、遠ざかるその後ろ姿を見つめていた。
 自分を襲うどころか、哀れむ言葉すらかけていった謎の生き物。あれが一体何者なのか、それはオオカミにはてんで分からなかったが、ただひとつ明らかなことがあった。
(……このままここにいても、凍え死ぬか飢え死ぬか、どちらかだ。もしあいつが俺を食うような奴じゃないなら、あいつについていけば、あるいは――)
 オオカミは肺にひとつ冷たい空気を入れると、バウッとひと声あげた。
 それでも怪物は立ち止まる様子がない。彼は全身のわずかな力を振り絞り、巨大な相手に飛びかかった。
 ちょうど尻尾のように垂れ下がった部分に噛みついたその瞬間、オオカミは強い違和感を覚えた。中身がないのだ。そこには生き物としての温度も、骨や肉の質感もなかった。
「……変なオオカミだな。鼻が利かないのか? これはお前の仲間の毛皮だぞ」
 巨大な怪物はそう言ってオオカミの首根っこを掴み、顔の前まで持ち上げた。
(たっ、高い!)
 脚が宙に浮き、瞬間的に地面が遠ざかる。辺りの低木よりずっと高い位置まで一瞬で持ち上げられたのだ。その恐怖に、オオカミは反射的に脚をすくめて体を丸くした。
 あまりの恐ろしさに、抵抗する勇気もなかった。それに、こんな高さから投げ落とされたりでもしたら、ただでは済まないだろう。怪物の意図は分からなかったが、無事に下ろしてもらうのが先決だ。
「キャン……キューン……」
 下ろしてくださいと言わんばかりに、耳を伏せ、上目遣いでその顔を見る。
 よく見れば、その毛むくじゃらの怪物の顔には毛がなく、上半分は黒っぽくて硬いものに覆われていた。目がどこかすらよく分からない。少なくとも、オオカミやトナカイのような長い顔ではなく、それどころか熊よりも平たい奇妙な顔であることは分かった。
 それはまた数秒の間黙っていたが、やがて口をわずかに開いて、ゆっくり息を吐いた。
「……吹雪が止むまでだぞ」
 オオカミの視界が明るかったのは、そこまでだった。一瞬のうちに、オオカミは狭くて暗い場所に押し込められた。怪物は彼を、自分の毛皮の中に入れた(・・・・・・・・)のだ。
 すぐにわずかな縦揺れが始まり、怪物が歩き始めたのが分かった。
 狭い隙間に乱雑に詰め込まれたオオカミは、何が起きたのか分からずに、手足をばたつかせて滅茶苦茶に声をあげた。暗闇の中、あの奇妙な匂いが鼻いっぱいにつく。
 怪物は低くぴしゃりと言い放った。
「黙れ。捨て置いてもいいんだぞ」
 その言葉に、オオカミはひとつ小さく鳴いて、暴れるのをやめた。
 動くのをやめると、体はすぐに疲労を思い出したようだった。足先の冷えがじわじわとほどけ、波のような眠気が襲いかかってくる。狭い暗闇は暖かく、一定のリズムで揺れる。外の吹雪の音はにぶく聞こえ、もはや別世界のもののようだった。
 こんなところで、寝てはいけない。
 そう思う間もなく、彼はゆらゆらと意識を落としていった。

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#知恵の劇場 単発小説
芸術館のロージィ(パフォーマンスアーティスト)とアンナ(建築家のウミウシ人魚)の話。
それもまたアートである。
芸術館展示室内における未申請パフォーマンス記録

「あ、ロージィじゃないか」
 アンナは目の端に同僚の後ろ姿をとらえ、その名前を呼んだ。返事はない。静寂のなかで、ただ静かに佇むマゼンタの背中があるだけだった。
(ふん。普段はあんなにやかましいってのに、このボクの挨拶は無視かよ)
 アンナは口角を下げてむっとした。自分を無視するその顔を見てやろうと、ウミウシ人魚の身体を押し込めた小型水槽を操作して、ロージィの前方に回り込む。その顔を覗き込んで、彼は少しぎょっとした。
 ロージィの視線は芸術館ホールの端の白い壁をただ見つめ、その口は静かな真一文字に閉じられていた。いつだってにこやかに笑って機嫌よく返事をする、あの陽気な人物とは同じに思えないほど、その表情は無機質だった。赤い視線は冷たく、ぴくりとも動かない。その手には、一輪の薔薇が握られていた。真っ赤だったであろう薔薇はすでに新鮮さを失い始めていて、くすんだ花びらにも張りがない。
「……なんだぁ、こいつ。おーい」
 アンナはその顔の前に手を振ってみたり、前髪をいじったりしてみるが、相手は一切の反応を返さない。視線は不気味なほど動じず、白い壁の一点を見つめたままだ。
(変なやつ。暇なのかは分からないが、いつも以上に話にならなさそうだな)
 人魚は呆れたように溜め息をつき、彼の顔から目を離した。その視線は何気なく、相手の手に握られている薔薇の花に映る。
 その視界に映ったものに対して、アンナは眉をしかめた。よく見れば、薔薇の棘がロージィの指から血を流していたのだ。緑色の三角の棘は彼の褐色の指先に食い込み、そこからわずかな血が細く垂れている。黒っぽく乾いた跡の上に、新しい血が流れて、それをゆっくりと繰り返して、手首に細く赤い汚れを作っている。垂れた血は袖に少し染み付いて滲み、それすら褐色に乾きはじめていた。
(こいつ、一体いつからこうしているんだ?)
 ウミウシの彼にとって、陸上生物のぬるく赤い血は、どこか未知な不快さをもっていた。ここの美しい大理石の床にこんなものを垂らされたら気分が悪い。そう思って、アンナはロージィの手に握られていた薔薇の花に手をかけた。
「貴様、これ――」
 その時、一枚の花弁が落ちた。
 薄く皴の入った、やわらかく生気のない赤い欠片が、白くひかる床に落ちる。
 花弁が床についたその瞬間、ロージィはようやく白い壁から視線を外し、人魚にゆっくりと顔を向けた。
「やあ。こんにちは、アンナ君」
 それはいつもの彼から口に出るようなものではなかった。声色も名前の呼び方も表情も、まるで別人のようだった。そこには跳ねる声色もカタコトの口調もおかしなイントネーションもなく、これまでに見たことのない穏やかさだけがあった。いつものあの、話の通じないほどの陽気さを知っている身からすれば、彼のこの態度はよっぽど異質で、いっそ不気味ですらある。
 人魚はその別人のような挨拶に、驚きのあまり口をぽかんと開けて数秒固まった。
「こんにちは、アンナ君。君が展示室にいるのは珍しいね?」
 ロージィは、丁寧な挨拶を繰り返し、落ち着き払った様子でそう言った。アンナは戸惑いつつ答える。
「……あ、ああ。たまにはここの内装を、見ようと思ってね」
「なるほど、それは良い。図面上での認識と実際に見るのとでは違いそうだものね。流石、かの有名な建築士アンナだ」
(こいつと話が通じるのが、こんなに不気味だとはな。いつものほうが何倍かましかもしれない)
 違和感のある会話に対して、アンナは心の中で悪態をついた。それから、気になっていたことをようやく訊ねた。
「ロージィ、キミはこんなところで何をしている?」
「薔薇を持って、立っているよ」
 薄く微笑んだまま、当人はただそれだけを答えた。
「そんなことは見ればわかる。ボクは、それに何の意味があるのかと聞いているんだ」
「意味は、ある場合にはあるし、ない場合にはない。僕は薔薇を持ってここに立っているが、それの意味はそれ自体にない」
 この意味不明な返答にアンナは頭をかきむしりたくなったが、人魚文化における最低限の礼儀として、それを我慢した。ロージィは相変わらずの平穏さと笑みでもって、アンナの顔を見つめている。
(普段と人が違うからと言って、わけが分からないことに変わりはないんだな。話すだけ無駄だったか)
 現実主義の建築家はそう結論付けて、その場を去ろうと自分の水槽を操作した。
 その振動が影響したのか定かではないが、ロージィの手元の薔薇がわずかに揺れ、その拍子にまた花弁がひとつ床に落ちる。
 アンナが、あ、と口に出したその瞬間、ロージィはその靴底でひとつめの花弁を踏み潰した。
 踵でひねるように力強く押しつぶす。靴の底から、わずかに赤い汁が滲んだ。
 ロージィは、ゆっくりと顔を上げる。目をまん丸く開けたままのアンナのほうを向き、口を開いた。
「何か?」
「……えっ」
「さっき、あ、と言ったから」
 薄っすらとした笑みとともに投げられたその問いかけに、アンナは戸惑いつつ答える。
「薔薇好きなのに、なんで踏みつぶしたんだって思って……。それに何より、床が汚れる」
 ロージィはその理由を聞いて満足そうにひとつ頷いた。手元の薔薇がその拍子にわずかに揺れる。三枚目の花弁が落ちる。二枚目の花弁が踏みつぶされる。指先から新しい血の雫が垂れて、床の上で赤い薔薇の色と混じり合う。四枚目の花弁が落ち、三枚目の花弁が潰され、床の赤を濃くしていく……。
 ――まともな話こそ通じないものの、平和主義で楽観的で、あらゆる美を肯定する――そんな普段の彼からはずいぶんとかけはなれた破壊性をもったその行為を前にして、アンナは何も言えずに、見ていることしかできなかった。
 しかし、足元を見下ろし、赤い痕跡を広げるように擦るロージィの表情は、変わらずにずっと穏やかな微笑みのままだった。
「ロージィ君、まだいたのかい」
 後ろからチーフの声が聞こえて、アンナはようやくその景色からはっと意識を引き戻された。
「……アラスチーフ。こいつは一体何をしているんですか」
「おそらくだけど、彼のパフォーマンスだよ」
 建築士の純粋な疑問に、ようやく一般的な見解が返された。上司はどこか納得するように頷き、続けた。
「芸術のひとつさ。昨日の夕方からずっと壁に向かっていたが、動きがあったんだね」
「昨日の夕方だって!? もう丸一日じゃないか!」
 アンナは驚きの声をあげた。なるほど、それで納得がいった。薔薇が萎れていたのも、ロージィの手から流れた血がもう何度も乾いていたのも、その時間によるものだったのだ。
 一日中薔薇を握りしめ、それが萎れるのを待って、ようやく落ちたその花弁を踏みにじる。これが前衛芸術だというのなら、何も分からないな、と呆れるような気持ちになった。だが、ここは芸術館である。何人も、他者の芸術を制限する筋合いはない。
「……後で掃除しておけよ」
 アンナの言葉に、ロージィは花びらからわずかに顔を上げる。彼はその微笑みを一辺も崩さず、静かに同僚に向けた。

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#海底二万里 #FA
第二部1章あたりの時系列の話。捏造二次創作掌編です。
 悪夢を見た。
 周囲を埋め尽くす銃声、悲鳴、怒号、倒れゆく人々。目の端に映る赤いものが火花か血か、もうよく分からない。遠くに見える軍人。人を人とも思わない残虐な行為がただただ繰り返されていた。何のためにこんなことが起こっているのだろうか。
 その光景にわたしは跳ね起きた。息は浅く跳ね、ひどい汗をかいている。起こした体を支える腕は震えていた。しかしそれでも、わたしの脳はその景色を反芻することを止めようとはしない。
 言いようのない気分の悪さが胸元にこみあげた。船酔い? まさか。
 静かにベッドから出て、その縁へ腰かける。冷汗は額も首元もじっとりと濡らし、あれがただの悪夢ではないことを自覚させる。そう、あれは夢ではないのだ。水面に浮かび上がる泡のように、奥底からまっすぐ蘇ってくるそれは、紛れもなくわたしの記憶だ。
 こんな景色を誰が見せている?
 わたし自身か、復讐の名を冠した怪物なのか。

 わたしは汗を拭き、軽く着替えて、その簡素な船長室を出た。
 時間は早朝にあたる。船は静かな音を立て、水面下四十から五十メートルのところを西北西に向かっていた。ジャワの沖にそって進むその行き先は、セイロンである。
 大広間にはひとりの学者がいた。標本の入ったケースに顔を近づけていて、わたしに気付いた様子はない。
 わたしはさっきまでの悪夢の余韻を頭から振り払い、息をしずかに整え、彼の言語で話しかけた。
「ずいぶん早いですね、アロナックスさん?」
「船長」
 その学者は、はっとわたしを見て、いつもの穏やかさで応えた。彼の手には畳まれた海図があった。海中を見ることのできる窓は閉めていたから、おおかたここが海洋のどこか調べたうえで、この辺りにいる魚種の標本を鑑賞していたのだろう。
 彼にあの船員を診てもらってから――あのサンゴの墓地を見せてから、何日か経過していた。
 アロナックス先生は、特に何も言おうとしなかった。それは、気になることがあるがそれを聞くのは今ではないと、わたしが口を開くのを待つような様子だ。彼はいつもそうだった。彼はわたしを学者の友としてみて、この海中旅行をあの助手と堪能する一方で、あの気の短い仲間のことを想っている。立派なものだ。しかし、わたしが彼の心配事をわざわざ気に留める義務はない。
 それでも、今のわたしは彼に礼をする筋合いがあった。
「先生、先日はどうも」
「先日というと、亡くなった彼のことでしょうか」
 わたしは静かに頷いた。先生は神妙に目を伏せて
「お気の毒に」
 といった。
 彼は、あの船員の怪我の理由を聞くことはもうしなかった。わたしが答えないことを、分かっているらしかった。
 彼の認識はその通りで、わたしは、わたしの目的を彼に明らかにするつもりは一切なかった。それは無意味なことだからだ。彼は海洋生物学者として素晴らしい人物だが、その事実はわたしの信念の僅かすら変える理由になり得ない。わたしと、ノーチラス号の船員である仲間の間にどれだけの絆があるかもまた、彼が知る必要はなかった。
 わたしは彼の隣に立って、黙ってその視線の先にある標本に目をやった。
「ネモ船長」
 と彼は口を開いた。
「この世界で最も大きなサメはウバザメですね。シャルル・ルシュールがゾウのようなサメとして記載をしていました。ここにはあらゆる魚種の標本がありますが、それほど大きなものは、さすがのあなたでも流石に難しいのでしょう」
 わたしは彼の言葉を受け止め、それから微笑んで答えた。
「いいえ、先生。剥製こそありませんが、もっと大きなサメがいますよ。それもこのインド洋にね」
「なんですって!」
 彼は声をあげ、信じられないといった風にこちらを見た。わたしは、本当ですよ、と頷いてみせる。
「ヒゲクジラのように食事をする、まだら模様のサメがいるのです。見た目はクジラによく似ていますが、尾びれが縦になっているのでサメの仲間だと分かるのです。クジラザメと呼んでも差し支えないでしょう。彼らは水温の高い海域にしかいませんから、きっと陸地の研究者がその生きているのを見るのは、ずっと後になるでしょうね。でも私は確かに見たことがあるのですよ」
 わたしは過去に何度も訪れたこの海で見た、その生き物のことを思い出しながら、そう説明した。ブルーサファイアのように明るく美しい赤道近くの海を泳ぎ、大勢のコバンザメを引き連れて泳ぐ、雄大で灰色の、善良なるかの生き物。あの姿を初めて目にした時のことは忘れまい。
「そう、血を流さないサメが、この海には存在しているのですよ……」
 陸地に足をとらわれただ血を流す愚かな存在とは違う生き方が、海にはある。わたしは彼らが知らない海を知っているのだ。わたしはもう、彼らとは違う。最期のその時までこの海にいることを誓ったのだ。
 わたしはこれまでにサンゴの墓に眠りについた船員たちのことを思い浮かべながら、標本のケースに手を添えて、じっと静かに目を瞑る。
 学者の視線が静かに向けられているのを、わたしは黙って感じていた。

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・ネモの出身地はあえて出していない
・1820年代以降にウバザメが記載されている
・1868年ごろにジンベイザメが記載されている(原作は1866~68の話)
あと、あくまでネモの人間っぽさ・傲慢さや、海底二万里にみられる当時の動物観も含めて好きなのでそのへんを考慮しています。
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#知恵の劇場 単発小説
圭宿と小さな来館者の話。
星海蹄類ソラウミウシの幼獣保護および一時飼養報告書

「これは、一体?」
 圭宿は片眼鏡をくいと指の甲で上げて訊ねた。普段の落ち着いた調子の中に、わずかに困惑が混ざっている。
 背の低いウサギの中年は、細い目をさらににっこりと細くして答える。
「宇宙海牛の赤ん坊じゃよ」

「いやねえハッブル君、それは判りますよ。あたしは宇宙生物には明るくありませんが、これは文献で知っていますし、館内に標本だってあるんですから」
 ソラウミウシ、あるいはウチュウウミウシ。それは、圭宿の元々知るウミウシという生物とは全く違った見た目をしていた。牛に似た前半身に、ひらひらとなびく不定形な下半身。淡い紫と白のまだら模様に染まった体は、短い毛並みに覆われている。
 大人になれば大型犬ほどの大きさになる生物だが、今ここにいる個体は圭宿の片腕の中にすっぽり収まるほどしかなかった。顔つきは幼く、まだ橙色の角すら生えきっていない。きょとんとした様子で、彼の腕の中に抱えられている。
「あたしが聞きたいのは、これの生きた幼獣なんてものがなぜここにいるのか、ってことなんです」
 私用で出掛けた学芸員がつい標本を持ち帰るなんてことは、この博物館では良くあるものだ。
 この天文学館で見るものといえば、岩石の欠片や宇宙を漂う魔法塵、既に死んだ生物の痕跡、新しいデータなどがほとんどである。しかし、生きたままの宇宙生物の子どもを持って帰る例など、彼がサブチーフを勤めるなかで、これまで一度も見たことがなかった。
 ハッブルは、それがなあ、と白い毛並みの頭を掻いて話し始めた。
「つい昨日、休暇をとって星海域でヨットに乗ってたんじゃよ」
「……はあ」
「この海牛たちは大規模な群れで移動しながら暮らす性質があるんじゃが、どうやらこの子は渡りに乗り遅れたようでな。わしの宇宙船に突然飛び込んできたんじゃ。そのまま置いてきても良かったんじゃが、やはり可哀想でな……」
 そうしてくるんと巻いた口髭をいじりながら、眉を下げて悩ましげに言ったかと思うと、彼はにわかに声を明るくした。
「そこで水流を調べてみたところ、その群れは半月後に来る星流嵐に乗って再び戻ってくるタイミングがあるようなんじゃ! じゃから、それに合わせて群れに返してやろうと思ったんじゃよ」
 ハッブルは顎に手を当てて、うんうんと納得するように頷く。
「なるほど。それは分かりました。ですがあなたねえ、先程あたしに、この子の面倒を頼むとおっしゃいましたね?」
「うむ。連れて帰ったは良いんじゃが、丁度このあと二週間ほど、兼任している科学技術館の件で手一杯になるのを忘れていたんじゃ。科学技に海牛の赤ん坊を連れていくのは、そのー……ちょっと危ないじゃろ」
「まあ、そうかもしれませんねえ」
 圭宿は他の館の様子に記憶を巡らせた。あの館がとりわけ危ないということはないが、機械いじりが好きな者がやたら多い空間だ。確かに小さな生き物の面倒を見るには向いていない。
「それでもなんであたしが――」
 その時、ぐい、と顔の横に垂らした三つ編みが下に引っ張られる。彼は視線をそっと腕の中に向けた。
 海牛はキュウキュウと小さく鳴いて、辺りをきょろきょろと見回している。前足の蹄が、彼が垂らした三つ編みの髪に引っ掛かって動けなくなっているようだ。細い足をそっと持ち上げて、外してやる。
 海牛は悩ましげな圭宿の顔を見上げてもう一度、キュウ、と鳴いた。
 目を伏せ、小さくため息を吐き出す。
「まあ、ここで幼子の面倒を見慣れているのはあたしくらいですか。……ハッブル君、後でこの子の食事やら何やらの情報をまとめて送ってくださいな。そしたら出来る限りのことはしましょう」
 ハッブルはその言葉に細い目を輝かせて、その場でぴょんぴょんと跳ねながら礼をした。
「おお~っ! ありがとう、ありがとう! 圭宿どのならきっと上手くやってくれるに違いない! いや、この子は圭宿どのの知る哺乳類に比べれば手はかからないはずじゃ。すぐに資料をまとめておこう!」
 ではな! と景気の良い挨拶を残し、ウサギはぴょんぴょんと跳ねながら場を後にした。静かになった研究室に残された圭宿は、腕の中の海牛と顔を見合わせる。
「全く、あたしが断わらないのを分かってたんでしょうねえ」
 海牛はじっと黙って、黒く丸い目で顔を見上げる。圭宿は両腕でそっと抱き抱えなおし、ゆったりと体を揺らしはじめた。まるで人の赤ん坊をあやすような手つきだ。
 頬を緩め、腕の中にそっと語り掛ける。
「そら、あなたも聞いてましたね? 二週間かそこらの辛抱ですよ。すぐに仲間に会えますからね」
「キュウ」
 あたたかな口調に、海牛はひとつ返事をした。

 海牛は手のかからない生き物だった。
 とはいえそれは、ここにいるチーフのもとにいるやんちゃな子竜や、プラネタリウムにいる荒くれケートスと比較すれば、の話ではあったが。
 この幼い海牛は腹を空かせた時以外はごく静かでじっとしている。ただ一つの問題は、驚くほどすぐに腹を空かせてしまうのである。
 いったん腹が減ると、この生き物は黙ってあちこちを動き回り、口に入りそうなものを片っ端から口に入れ、舐めていく。おそらく幼獣の本能的なものなのだろう。
 別の館に連れていけないというハッブルの言い分も今では良く理解できたし、この研究室が普段から散らかっていないことに、心の底から安心した。
 彼はハッブルが用意した食事――宇宙海洋に生える苔や藻類の一種らしい――を一日に三、四度食べさせて、それ以外の時間は海牛が勝手に歩き回らないよう見張る、という仕事を余儀なくされた。
「圭宿さん……その、何か、手伝えることは、ある?」
 小さな上司が柔らかな金髪をふわりと傾け、心配そうに声を掛けた。圭宿は研究室の机でとある暦の図を睨み付け、その正確性における違和感の正体を突き止めようとしていたところだった。
「おやステラ君。ありがとうございます。今は――」
 大丈夫ですよ、と答えようとしたところで、椅子の横に重ねておいたストールにちらりと目をやる。さっきまでそこに眠っていたはずの海牛の姿はなく、ストールの中央には凹みだけが残されていた。
 当の小さな本人は、目の前のステラの腕に抱き抱えられ、柔らかな素材でできたおもちゃを機嫌良さそうに噛んでいた。
 状況を理解し、眉間を押さえて立ち上がる。
「ああ、すみません。あたしったら、この子が起きたのに気付かず。捕まえてくだすって、ありがとうございます」
 礼をして、その子を受けとりますよ、という風に両手を伸ばす。ステラはほんの僅かに視線を泳がせた。ええと、と少し言葉に迷いつつ、いつものように控えめに口を開く。
「よければ、少しの間、この子を……見てましょうか。多分、大丈夫。このおもちゃも、アポロンが使ってたものなの」
 ステラの斜め後ろに控えていた子竜のアポロンは得意気にフンと鼻を鳴らした。まるで、この新入りのちびすけに譲ってやったんだぞ、と自慢するかのように。
 圭宿はステラの珍しい言動に少しの驚きを覚えたのち、ふむ、と顎に手を当てる。
(本来あたしへの頼まれ事ではありましたが、これは彼女の経験にもなるでしょう)
 そう考えて、ゆったりと金の瞳を細めて頷いた。
「ありがとうございます。それじゃ、今からこの子の食事を手伝ってくれますか」
 少女がぱちくりと瞬きをする。
「……その、お仕事は?」
 ステラは心配そうに、彼の手元の資料に視線をやった。複雑な図形や計算がいくつも書かれた書類に、圭宿は肩をすくめる。
「ああ、これですか。この作業は急ぎではないんですが、面倒で煮詰まってまして。……恥ずかしながら、それで海牛が起きたのに気付かなかったんです。だからあたしも少し気晴らしがしたいところなんですよ」
 その言葉にステラの顔がわずかにほころび、頷いた。
「分かりました」

 乾燥した苔のようなものにほんの少しの水をかけると、すぐに繊維質にほどけて、緑色の細かい網のように広がった。海藻とは違う特有の匂いが辺りに漂う。圭宿はそれをスプーンでほぐしながら、少しずつ水を足して固さを調整する。
 手伝いを頼まれたというのに任されることが何もないステラは、その手元を見つめ静かに様子を伺っていた。彼女に抱えられた海牛もまた、きょとんとした顔でおもちゃを噛んでいる。
 圭宿は給湯室の隅に据えられた長椅子に腰を下ろすと、両腕を伸ばした。
「ステラ君、その子をこちらへくださいな」
 少女は小さく頷き、海牛をそっと預ける。そして一瞬の迷いの後、その隣へちょこんと腰掛けた。
 圭宿は手慣れた様子で海牛をうつ伏せになるように抱えなおし、顔の下の辺りに布巾を挟み込む。それから
「ハッブル君によれば、この姿勢が正しいんですって。この布巾は……これがないと、この子に服をびしょ濡れにされてしまいますから」
 と、軽く笑いながら説明を挟んだ。
 圭宿がスプーンを口元へ持っていくと、海牛は鼻を何度か動かした後、夢中でそれを舐めとり始めた。彼は細い目をさらに細め、その様子をじっくりと見つめる。海牛がぺちゃぺちゃと舐める音の合間に、次の一杯を掬うスプーンの固い音が響く以外は、静けさが保たれていた。
 そのじっとした空気の中、ステラが口を開いた。
「……圭宿さん、宇宙海牛を見るのは、今回が初めてって」
「ええ、そうですよ。それがどうかしましたか?」
 眉を上げる彼に、少女は小さな疑問の理由を言葉にする。
「なんだか、すごく……手慣れてるから」
「ああ。あたしにも子どもがいましたからね、そのおかげでしょう」
 さらりと出たその言葉に、ステラは目をまん丸くした。圭宿は顔色一つ変えず、その驚きを受け止めた。
「……知らなかった」
「まあ、言う機会もそうそうありませんから。わざと黙っていたわけじゃありませんよ」
 圭宿は海牛の口へスプーンを差し出しながら、静かな微笑みをもって給餌を続ける。海牛は出されたご馳走を味わおうと夢中になって、敷かれた布巾を好き放題に汚していた。
 ほんの数秒間、沈黙が流れる。ステラは、良くないことを話題にしてしまったかと不安になり始めたが、それが言葉の輪郭をもち始める直前に、圭宿は口を開いた。
「あの子はあたしと違って、星にまるで興味のない子でしたねえ。むしろ、地面の虫や草に夢中だったんですよ。虫を捕まえるのを何度も手伝わされました。……大きくなっていれば、どんな子に育っていたのか」
 彼の瞳は海牛をじっと見ていたが、それは人が懐かしい思い出を語るときの、どこか遠くを見据えるような視線でもあった。
 微笑みながら語るその声は決して落ち込みきってはいなかったが、ステラは口をつぐんだ。いつもの青くきらめく視線を伏せて、暗く泳がせる。
 それが彼女の利口さからくる沈黙であることを理解し、圭宿は柔らかく言葉を続けた。
「ステラ君は優しいですね。ええ、無理に何か言わなくて構いませんとも」
 一匙を平らげた海牛の口元に新しい食事を運び、小さな口がまた忙しく動くのを見守る。
「時間が解決してくれるのを待つしかないんです。星は時には色んなものを連れていってしまいますが、塞ぎ込むばかりでは何にもなりませんから。ただ決して忘れないよう、こうして折に触れてあの子に教えてもらったことを思い出すわけです。――ほら、半分終わりましたよ。同じようにやってみなさいな」
 ステラははっとして顔を上げる。
 彼の手から海牛を受け取り、そっと抱き抱えなおした。食事の途中で興奮しているのか、さっき持ち上げた時と比べてよく動く。圭宿の抱え方を思い出して同じような体勢にしてやると、海牛はうまく腕の中におさまり、すんと落ち着いた。
 圭宿は表情をふっと柔らかくして、餌を掬ったスプーンを手渡す。ステラはまた先ほど見たやり方を思い出して差し出すと、海牛はまるで誰からもらっても同じだと言わんばかりに食事に夢中になった。
 よかった、とステラの表情の緊張がわずかに緩む。その横顔を見て、圭宿も微笑んだ。
「ええ、上手いものですよ」
 足元で大人しく拗ねているアポロンの背を撫でてやりながら、圭宿は静かに見守る。
 海牛の生えかけの角が、機嫌よさそうにぼんやりと光っていた。

 ばたばたした足音とともに、ハッブルが圭宿の机へ現れた。珍しく作業用の眼鏡をかけたままで、小脇には書類の束を抱えている。
「圭宿どの、圭宿どの!」
「そんなに大声をあげなくとも聞こえていますよ。どうしたんです?」
 作業中の筆を硯に置いて、圭宿は片眼鏡越しの視線を机の向こうに向ける。ハッブルは早口で、一言に言いきった。
「星流嵐が少し早まったようじゃ、その子を帰すのが三日ほど前倒しになる」
 それを耳にした彼はいつもの通り落ち着いていたが、その両眉はわずかに上がった。当の本人である海牛は、彼の膝の上でストールに包まれてすやすや眠っている。
「まあ、星海の巡りにはそういうこともあるでしょう。三日早くなるというと、明日の午後には、といったところでしょうか」
「うむ。しかし、わしの船のスピードを考えるともっと早く……そうじゃな、朝のうちには出たいところじゃの」
 ハッブルはくるんと巻いたひげをいじりながら言った。
「一旦この書類を置いてきたら、その子を引き取りにまた来るぞい。圭宿どのには本当に面倒をかけたからのう! 少しでも早くその子を引き取ってやろうと思うてな」
 ウサギのその言葉に、圭宿はほんの少し黙り込む。
 その時、髪がぐんと下に引っ張られた。それはここ一週間と少しの間にすっかり慣れた感覚だった。視線を下げると、案の定、起きた海牛の蹄が彼の三つ編みに引っ掛かっている。
 圭宿はその細い脚をそっと持ち上げ、蹄に絡まった髪を解いた。それから、自分のほうを見上げるきょとんとした顔をじっと見つめる。
 この小さな身体も、明日にはここの重力と別れを告げるのだ。
 彼は金の目を伏せ、小さく首を横に振った。
「いえ、明日の朝まで面倒を見てもいいでしょうか。……ほら、あなたも出航準備があるでしょうから」
 ハッブルは意外な返答に、いつもの細い目をまん丸くして二、三秒固まった。それからまたきゅっと笑顔になり、快く頷いて見せた。

 いつものように研究書類の束を睨み、じっと黙って考え込む。計算は滞り、筆は進まない。圭宿はもう一時間ほど同じ調子だった。
 その時、振り子時計が何度か鳴らした音に、彼はぱっと顔を上げて筆を置いた。
(そろそろあの子が腹を空かせる頃だ。食事の用意をーー)
 そこまで考えて、はっとする。もう海牛の食事を用意する必要などないのだった。
 圭宿は小さなため息を吐き、背もたれに寄りかかる。
(そうだ。もうあの子の世話のことを考える必要はないんでした)
 あの子の世話のことを考える必要はない。
 頭の中に浮かぶその言葉は、懐かしく重たい。何年も前、自身に繰り返し言い聞かせた言葉だ。あの頃の感覚は、今でも鮮明に思い起こすことができる。行き場のない寂しさに、呼吸が詰まるような感覚。そして、それを事実だと飲み込むことしか許されない空しさ。
(誰かが居なくなることは、いつだって慣れない……いや、慣れたくなどありませんね)
 ふと、顔の横に下げた三つ編みに指をかけ、ほんの少しだけ引っ張ってみる。髪の毛を引っ張りたがる小さな掌と、絡まりがちな小さな蹄が脳裏によぎる。
 彼はその懐かしい感覚にそっと目を閉じ、ぽつりと呟いた。
「ええ、忘れませんとも。おちびさん」

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おしらせ,文字

ここに上げている小説系の長文の見た目を、より読みやすいように調整しました(特にPC環境)

自分は小説の改行が少なめなので、普通の日記とかの文章と比較すると小説の文章がミッチミチに見えちゃうんですよね。
なので幅とか文字の詰め方とかフォントとか、そのへんを調整しました。
PCだと左寄せすぎて不格好かもだけど、ひとまずの対処ということで……。
(キャッシュが残っていると変更に時間がかかるかも)

適用は手動なので、過去の長文投稿も気になったものからスタイル変更していきます~。

,文字

#銀嶺の獣
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「あ! 何かいたよ!」
 少女が川のほうへぐいっと身を乗り出す。
 ニーナが指差す先では、水が穏やかに流れていた。朝日を受けた水面は、静かに音をたてながらちらちらと輝いている。小さな沢は、ここ数日の雪解け水でいつもより僅かに水流が速い。
 ゼルデデは、ニーナが持った枝の片側を軽く引っ張って警告した。ついさっき少女に「こっち側を持ってて」とせがまれて持たされたものだった。
「こら。あまり、川縁に近づくんじゃない。……雪が滑って、落ちるぞ」
「大丈夫だよ! ほら、ニーナは枝のこっち側持ってるでしょ。こうやって、手を離さなきゃいいんだよ」
 無邪気な少女はそう言って、枝の片側をつかんだまま、ぶらぶらと体重をかけるように川を覗き込む。
 ゼルデデは枝と一緒に紐を握る手を強めた。
 その細い紐はニーナの腰元につながっていた。それは、まだ幼く落ち着きのない彼女を森で見失わないよう、結びつけたものだ。使い始めてから数週間というところだったが、幸か不幸か、この紐は既に何度かその役目を果たしていた。
 ゼルデデは、また今日も面倒事が起こるのかと、うんざりした気持ちになった。
「川縁は危ないんだ。前にも一度川に入って、ひどい風邪をひいただろう。あれと同じようになる……」
「ゼルデデほら! あそこにも! あれってお魚? 捕まえられないかなあ」
 心配をよそに、ニーナは水の中の気配に夢中になっていた。川のほうへ重心を移動させるたび、小さな靴はぎゅむ、と微かな音を立てて雪に沈み込む。雪の下の岩が滑る想像は容易についた。
 ゼルデデは仮面の下で眉をしかめ、低いため息を吐く。それから、脇でそわそわとしているオオカミに声をかけた。
「おいアル。お前も見ていないで、こいつを止めろ。俺は、また病人の面倒をみるのは、こりごりなんだ」
 オオカミはその不機嫌そうな顔を一瞬見上げてから、真意を察する。
『ニーナ、ゼルデデが心配してるぜ』
 湿った鼻でぐいと胸元を押され、ニーナは唇を尖らせた。「はーい」と煮え切らない返事をして、ゼルデデの足元まで後ずさる。
「ね、ゼルデデはあの魚とれる?」
 ニーナを連れて数歩下がりながら、ゼルデデは仮面越しの川に目をやった。銀に光る水面の下で、小さな影が揺れているのが見える。
「捕れるが、ここのは小さすぎて、食えるようなものではない。わざわざ捕ろうとは、思わん」
 そう不愛想に言った数拍の後、ゼルデデはまた口を開いた。
「……興味があるなら、後で釣具か罠でも作ってやろうか」
「釣り! やりたい! ね、早くお散歩終わらせて帰ろうよう」
 少女は見上げた瞳を輝かせて、ぐいぐいと枝を引っ張る。
 わがままな振る舞いに呆れながら、ゼルデデは白い息を吐いた。

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2026/2/1 ちょっと加筆修正

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#銀嶺の獣
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 山の天気が変わるのは、突然だった。
 散歩の間に吹雪に吹かれたゼルデデは、連れていた一人と一匹を軽々とかつぎ上げた。
「わっ」
 と驚く小さな声には気にも留めず、少し歩いた場所に突然現れた洞窟に潜り込む。雪の中にぽっかりと開いた入り口は随分と狭く見えたが、彼は一切の躊躇を見せることなく、その中へ入っていった。
 薄暗い闇の中に下ろされた二人は、冷たい雪の張り付いた顔を見合わせた。
 ゼルデデはただ一言
「そこにいろ」
 と呟き、奥へと歩いていった。
 目の前には、外の雪のわずかな光も届かない闇が広がっている。オオカミのアルには、この洞窟がどれほど広いのかも見当がつかなかった。音の響き方と、並の人間より背の高いゼルデデが難なく歩けるところを見るに、洞窟の天井は随分と高さがあるようだった。
 外の吹雪はひどくなる一方だった。しかし、その冷気を含む風は外をごうごうと通り過ぎるだけで、洞窟の内側へ吹き込んでくる風は、ほんの少しだけだった。ひゅうひゅうと、耳をつんざくような高い音が響く。
 アルはニーナが冷えないように、その分厚い毛皮をぎゅっと近寄せた。
 洞窟の奥で、ゼルデデは何かがたがたと音を立てている。状況がまだあまり理解できていない様子の少女は、呑気に質問を投げ掛けた。
「ねー、何してるの」
 その高い声は、洞窟の中にわあんとこだました。絶えず反響している外の風音と重なって、耳の奥が揺らされる。
 ゼルデデはただ一言
「準備」
 とだけ返事をした。暗い中で何をしているのか、ニーナの視界にはほとんど映らない。
 やがて彼は入口付近に戻ってきた。それから、どうにか吹雪の風が当たらないくらいの場所に座ると、手に持ってきた枝をがさがさと置いた。服から火打石を取り出し、手慣れた様子で布の切れ端に火を点ける。その火口の火は枯れ枝に燃え移り、やがて小さな焚き火となった。
 ニーナとアルはぴったりくっついたまま、そこへ近付いた。
「あったかいねぇ」
 少女は手をかざして、にこにこと微笑む。
 火は辺りをぼんやりと照らし、洞窟の高い壁に大きな影を作った。それはまだ小さかったが、雪に凍えた彼らにとっては何よりも頼もしい暖かさだった。
 ゼルデデは黙って、火の様子を見ながら淡々と枝を投げ込んでいく。枝はぱちぱちと音を立て、段々と火の勢いも強まってきた。
 洞窟の壁に、三つの大きな影がゆらゆらと映る。
『よく燃やせるような枝があったな』
 それは二人にだけ聞こえるアルの声だ。
 ゼルデデは火から一切目を離さずに、ぼそぼそとした低い声で答える。
「この辺りはよく通るから、こういう時のために、時々物資を補給しているんだ。……奥に小さな縦穴もあるから、換気も心配ない……良い場所だ」
 そこでオオカミは改めて周囲を見回した。少し明るく照らされた辺りを見れば、火を焚いた跡や掃除をした形跡が見えた。
『へえ、避難所ってとこか。こういう場所は他にもあるのか?』
「……何か所か、ある」
 会話はそれきりだった。
 暖かな炎に照らされた空間には、ごうごうと強まる風の音が、くぐもって響いていた。
 焚き火が安定してくると、ゼルデデは雪で濡れた上着を脱いだ。上着の表面が乾くように焚き火のそばに広げ、いつの間にか外していた仮面をその上に静かに置く。
 ゼルデデが焚き火に向かってどっしりと腰を下ろすと、アルとニーナはいそいそと移動し、彼を挟むようにぴったりと座り込んだ。

「ねえゼルデデ、お話して」
 ニーナはそう言ってゼルデデを見上げる。目が合うと、少女の金と青の大きな瞳はぱちぱちと瞬きをした。大男は僅かに眉をしかめる。
「話、だと?」
「うん!」
「……話すことなど、ない」
 考える素振りもなく、ゼルデデは首を横に振った。
 その態度に、少女は頬を膨らませる。
「作り話でも、昔話でも、何でもいいんだよ。このままじゃ眠くなっちゃう! ねえ、アルもそうでしょ?」
『オレは別に……』
 オオカミはそう言いかけて、目の前にいる少女のしかめっ面の意味を汲み取った。ここで少女の機嫌をとらないと、後々面倒なことになりそうだ。
『ゼルデデ、オレもお前の話が聞きたいな。お前はこの中で一番長生きだから、色んな話を知っているだろ』
 男は眉をさらに曲げ、一人と一匹の顔を見やった。左右から投げられる視線は、純粋で期待に満ちている。
 彼は眉間の皺に手を当てて、低く長いため息をゆっくりと吐きだした。
 それからさらに少し間をおいて、彼は観念したように口を開いた。金色の目に、焚き火の明かりがちらつく。
「……俺が子どもの頃に聞いた話だ。昔、とある村に男が住んでいたという。彼はたいへんな正直者で――」
 普段とは違う朗々とした語り口に、ニーナとアルは一瞬目を合わせた。
 その驚きは、話に聞き入っていくとすぐにどこかへ行ってしまった。それはどこにでもあるような昔話だった。けれど、彼の紡ぐ言葉には、まるでその話を本当に見てきたかのような様子があった。
 低い声で紡がれる語りが、洞窟内にこだまする。
 うなる風音が、枯れ枝がはじける音と重なり、歌のように響いていた。

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2026/2/1 加筆修正

文字

#知恵の劇場 単発小説
サフランの仕事はこんな感じなのかな~というお話。
※架空の動物の解体描写あり
※解体や生態についてはツッコミどころだらけだと思うんですが大目に見てください

死後検査報告書:水妖類シロハラスイバ幼体

「明後日の昼から、死後検査入れられますか」
 廊下で唐突に呼び止められたかと思えば、訊ねられたのはそんなことだった。
 相手はサフランと同じ動物館の学芸員で、なかでも比較的よく合わせる顔だった。4本の腕を器用に組み、背中に緑色の鎌を畳んだ蟷螂の彼女は、ここの剥製師の一人だ。
 明後日の昼かあ、と口の中で呟く。
「ちょい待って」
 一旦そう返して、サフランは袖のポケットから小さなメモを取り出し、青い指でぱらぱらと捲る。ここ数日の予定はこまごましていたから、詰めれば時間はとれそうだ。
 サフランは軽く頷き、メモをしまいながら言った。
「いけると思う。今回は何?」
 剝製師はいつもの澄ました顔で、淡々と答える。
「シロハラスイバ……いわゆるケルピー類ですね、その幼体です。頭部の損傷が激しいのですが、死因に気になるところがあるらしく。今は魔法のほうで、死後数時間の状態で保ってもらっています」
 サフランはその言葉に眉をひそめた。ケルピーといえば、馬の姿をした水棲の生物だ。心配そうに呟く。
「……いけるかな。あたしケルピー馴染みないよ?」
「むしろあなた以外に、いけそうな人は見当たらない」
 剥製士は上の肩をすくめて、さらりとそう言った。病理専門の者が少ないここで、必要があれば駆り出されるのは仕方のないことだ。
 眉根を寄せたままのサフランに、剥製師は頭をひねって言った。
「ああ……ほら。スイバは水妖のなかでも比較的あなたの専門に近い形質ではあるでしょう? 今後の参考にもなるんじゃないですか」
 最後の言葉に、サフランは大きなため息を返した。彼女の言う通りだ。経験は積んでおいて損はない。
「あー、分かったよ。後で詳細送っといて」
 ゾンビは青い袖をひらひらと振った。

 白い腹の皮膚に、すっと刃が入る。
 その姿は子馬によく似ていたが、毛質や蹄の形状など、所々がウマと違っていた。何より見慣れないのが、水中生活に対応した魚のような尾びれだった。
 サフランはその様子を一歩離れた場所から眺めていた。部屋の中には彼女と剥製師のほかに二人の学芸員――それぞれ水棲生物と幻想種の専門だった――がいる。 彼らはそれぞれしきりに手元の紙に書き込んでいた。
 サフランはこの二日間、ケルピーの中でもシロハラスイバと呼ばれるこの種に関する事項を頭に叩き込んでいた。しかし個体数の少ない生物であったから、直接参考になるような資料は少ない。近縁種や単なる目撃証言など、できる限り周囲の情報にも目を通しておいた。
 本当は向かいにいる学芸員たちに教えを乞えればよかったが、彼らはここ二日間ずっと忙しくしていて、おすすめの本を借りることくらいしかできなかったのだ。それでも、近縁種のケルピーやセイレーン、ウマ類の幻想種について知識が得られたのは幸いだった。
 剥製師のナイフさばきには一切の迷いがない。サフランにはまるで意味が分からなかったが、彼女には切るべき線がもう見えているのだろう。先に計測した時に小さく付けたしるしに向かって滑るナイフは、美しかった。
 なめらかな皮が、剥がされていく。シロハラスイバは、ただでさえスイバのなかでも小型な種だ。その幼体はウマに似ているとはいえ、中型犬ほどの大きさしかなかった。剝製師は四本の腕を器用に操って、美しい皮を淡々と剥いでいく。手伝うまでもなく、四肢の白い皮は順番に重みをなくしていき、代わりにその下からピンク色の塊が顔を出す。
 事前の観察の時点でも、このスイバの毛並みはやや粗く、痩せていた。剥がすところをみると皮下脂肪も全体的に薄く見えたが、どこまでがこの個体の特徴なのか、サフランには判断がつかない。とりあえず、と思い手元のメモに書き留めておく。
 首から下の皮だけをなめしてサンプルにするというのは、事前に聞いていた事項だ。頭部は強い物理的衝撃を受けたようで、もはや原型を留めていない。
「はい、こちらは大丈夫です」
 魚類に似た尾びれの先端を切り離し、全身の処理を終えた剝製師は言った。ナイフをそっと置き、それから白い皮を大きなバットに丁寧に移す。
「皮は問題ありませんから、処理のほうへ回します。サフラン、どうぞ」
 サフランは頷く。それからいつものように長い袖を捲るような動きをしてしまい、から回る手元にはっとした。
(あー、やっぱ白衣って苦手。いつまで経っても慣れない)
 その白い袖はいつだって、自分が着るはずではないもの、という感覚がする。しかしサフランにとってその服は、まあまあの実用性以上に、目の前にあるかつて生きていたものへの敬意を表す意味をも持っていた。
 皮膚を失ったスイバの前に立って手袋をはめ、軽く両手を合わせる。信仰ではなかった。彼女の生まれ育った文化が、自然とそうさせたのだ。
 サフランは手にとったメスで、首元から腹部にかけて鋭利な切れ目を入れていった。青い腕の先で、銀色に光る刃。胸骨に分厚い骨鋏を入れる瞬間の、硬く響く音。かつて動いていた器官からあがる、むっとする匂い。音もなく裂かれるなめらかな薄い膜。その中身を隅々と見つめる、鋭い黄色の瞳。
 必死に手と視線と頭を動かしながら、彼女は気付いたことを次々と声に出す。隣の学芸員に書きとってもらうのだ。
「やっぱり脂肪は少ないし、肉も薄い。消化管は委縮。浮袋は広がっていないが炎症。肝臓の一部が壊死している――」
 そして時折、隣の学芸員に訊ねることもあった。
「胃の中に少量ある紫のこれ、藻類だと思うんだけど。スイバってこれ食べたっけ?」
「いや、スイバどころか、ケルピー類にとっての毒。食べるなんて、思えない」
「分かった。とっておこう」
 専門的なところの指示も受けながら、サフランはこの個体から得られる情報を一つでも見落とさないように、解体と観察を続けた。
 スイバの資料は少ない。だが、今目の前にあるものがいつか誰かの役に立つ資料のひとつになるはずだ。
 そんな心持ちで、サフランは目の前で解体されゆく肉体を見つめていた。ここにいる学者は皆、同じことを考えていたことだろう。

「内臓の一部にみられた中毒症状は、やはり胃に残っていたシセロ水藻のものだろう、とのことです」
 休憩所で話していたサフランと水棲生物学者に、植物館からの伝言を持ってきた幻想生物学者は言った。サフランはありがとー、と言って返された書類を確認する。
 それは一週間前のあの解体後に作った資料だった。写真と所見がおおざっぱに、そして大量にまとめてある。彼女は後でこの内容を精査することを考えるとうんざりしたが、ひとまず新しい情報に集中することにした。
 紙束の最初に付け足された一枚は、図鑑のページをコピーしたもののようだ。藻類の種名とその説明がずらりと並んでいる中、赤いペンで線が引かれている箇所がある。『シセロ水藻』『本種に含まれる成分は幻覚作用と肝臓障害を引き起こす』……。
 幻想種の学者は白っぽい髪を掻きあげ、立ったままで話し始めた。
「ただ、ケルピーはそもそも、シセロ水藻があるような水質自体を好みません。わざわざこれを食べるような状況として考えられるのは……ストレスによる異常行動、などでしょうか」
 サフランは、瘦せこけたスイバの体を思い出していた。頭の中に流れてきた考えをまとめるように口に出してみる。
「胃には水藻しかなかったじゃん? 空腹のさなかにあの藻類を食べたってことでしょ」
 向かいにいる二人の学芸員が頷くのを見て、サフランは続けた。
「たとえば、何らかのストレスを受けて飢餓状態が続いて、 本来では行かないはずの水域に迷い込んだ。そこで藻類を食べて飢餓に中毒が重なって死亡。で、ドラゴン類に頭部を襲われたのは死後……順序的にはそんな感じがするね」
 何らかのストレス、と自分で言った言葉を繰り返す。水棲種の学者が、茶色い猫のような耳を揺らしながらぽつぽつと呟くように言った。
「あのケルピーはまだ、親離れしてない大きさ。あれらの親子は、基本的に常に一緒だ。親も水域を間違えるほどのことがあったか、あるいは……」
「育児放棄の可能性、かあ」
 サフランは頭の上で腕を組み、椅子の背もたれに思いっきり寄りかかった。
 茶色い猫の学者は小さく肩をすくめた。
「あくまで、推測でしかない」
「ええ、それにあの辺りには幻覚性のドラゴンもわずかにいますから。可能性はまだ絞り込めませんね」
 長い髪を揺らして苦笑いする学者に、サフランは軽いトーンで応えた。
「それでも、あの子は色んなことを伝えてくれたよ。こりゃしっかりまとめなきゃね」
 二人の学者に別れを告げて、サフランは研究室に脚を運ぶことにした。頭を使う事務作業は、静かなほうが捗る。やがて廊下の向こうから四本腕の剝製師がやってくるのに気が付いて、サフランは長い袖を振った。
 剝製師はいつも通りすんっと澄ました顔をして、抑揚のない声で言った。
「ああ、お疲れ様です。スイバの解体資料は順調ですか」
「誰のおかげで増えた仕事だと」
 サフランの言葉は怒っているようだったが、その声と顔は冗談っぽく笑っていた。剝製師も珍しく口角をうっすら上げる。
 少しの間をおいて、サフランは低い声でぽつりと言った。
「ね、本当にあたしでよかったのかな。何か……何かずっと、見落としがある気がして。あの子が持っていた情報の何割を、あたしは読めたんだろう、って」
 いつもあっけらかんとしたサフランが時折見せる、真面目さから来る自信のなさ。剝製師は一瞬考え込み、それからさらりと言った。
「でも、私はあなたに頼んで良かったと思っていますよ。それに、あなた一人で検査したわけじゃないでしょう? 今の私たちにできることは全てやりましたし、今受け取れる限りの情報をもらえました。私はそう思っています」
 サフランは少し納得したものの、でもさあ、と悩む口ぶりをごにょごにょと続ける。それを見た彼女はうっすら微笑んで言った。
「いつでも歩みを止めようとしないのは、あなたの美点ですね」
 剝製師はぱっと踵を返して、廊下の奥へと歩き出した。「戻るの?」と顔を上げたサフランを軽く振り返って言う。
「皮をなめしているところでも見ますか」
「えっ、いいの」
 そう驚くサフランの顔は、にわかに明るくなっていた。
「別に、見たくないのなら構いませんが?」
 サフランは笑い、迷わずに四本の腕を組んだ背中をぱたぱたと追いかける。
 ふたつの足音が廊下に響いていった。

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文字

#知恵の劇場
書き途中のお話に入れるか迷って結局入れないことになった文章。
せっかくなので少し整えて置いておく。
ロクと出会った人間の話。

ある船乗りの見た景色

 ありゃ何だ!? 鳥……鳥だって? あんな大きさの鳥があるもんか! いや違う、見間違いじゃねえ!
――二時の方向から巨大な鳥だァ!
 マストの見張り台から聞こえた声。その瞬間ちょうど甲板の掃除をしていた俺は、直ぐにその方角に目をやった。雲を背に空に浮かぶそれは影になってよく見えなかったが、鳥だった。そして確かに、海鳥とは明らかに違う飛び方と輪郭をしている。俺は数秒後に気付くことになった。その鳥の近付いてくる速さと、異様なまでの大きさに。
 船長はあらんかぎりの声を張り上げて俺たち船員に指示を出し、俺たちもそれに応えた。しかし鳥の急接近は目にも止まらぬ速さで、船の進行方向を変えるのすら間に合わなかった。大砲も空をきる。
 太陽はにわかに巨大な翼に覆い隠されたかと思うと、次の瞬間には俺のすぐ真後ろに鱗の脚と鉤爪が迫っていた。
 雷かと思うほどの、大きく割れるように軋む音。一瞬で終わりを覚悟するほどに傾く船体。身の丈の何倍も高く上がる水しぶき。
 俺は本来ならすぐ振り落とされそうな場所にいたが、運良くロープを掴むのに間に合った。大きく揺れ動き続ける船体に必死でしがみつき、上を見上げる。
 巨大なワシのような鳥が、ばさばさと羽を振って船にしがみついている。高さ四十フィート、いやそれ以上あるだろうか? 俺の頭に、昔どこかで聞いた巨鳥の昔話がよぎったが、命の危機を前にして直ぐに搔き消えた。
 鳥の羽ばたきが起こした風で、俺の掴んでいたロープは千切れそうな音を立ててしなった。ロープを掴む俺の手も限界が近く、ぎりぎりと痛みが走る。
 数分か十数分のように感じたが、本当はたった数秒間のことだったかもしれない。どれほどの時間が経ったのかは分からなかったが、船の揺れは先程よりゆるやかになった。鳥は姿勢を落ち着けたようで、こちらの方を見ても攻撃してくる様子はない。首をかしげて、その青くぎょろぎょろした瞳で俺を見た。ずぶ濡れになった体でも冷や汗が出るのは分かる。奴がこのまま落ち着いて飛び立つのを待てば、あるいは助かるかもしれない。
 辺りを見回すと、まだ揺れている甲板には浅い波が立っていた。板のあちこちに小さいヒビや穴が開いて、その下へ海水が流れ込んでいる。この船の最重要とも言える積み荷は、おそらくずぶ濡れで無事ではないだろう。
 自分の命よりも、荷を確実に運ぶことが重要なのだ、というのは船長の口癖だった。
 俺ははっとした。船長は無事なのか? 乗組員のうち、どれだけの人がまだ船上にいるんだ――。
 そう思った瞬間。高くつんざく発砲音が、波の音を掻いくぐって鳴り響いた。
 鳥は慌て体を浮かせる。鉤爪が甲板を離れると同時に、揺れが止みかけた船体がまた大きく振れた。俺は血の滲む手でロープを再び握り締め、音のしたほうに目をやった。
 片手に銃を持った航海士が、絶望した顔で鳥を見ていた。そうだ、奴はいつも余計なことばかりする男だった。
 鳥は船側に捕まろうとしたのだろう。船は大きく傾き、やがて上下方向すらも見失った。海面が近付く。
 ああ、暗――。

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文字

セミの思い出話。
 今年もまた、セミが鳴きだした。
 一足はやく起きたらしいニイニイゼミの繊細な音に、アブラゼミの力強い声が重なる。
 セミの存在を感じると、私の頭の中には小学生の頃のひとつの夏が思い起こされる。あの頃の夏休み、両親は私たち兄弟を、四国の山にあるキャンプ場に連れて行ってくれた。キャンプ地といっても、テントを建てるのではなく、小さなコテージに泊まるのだけれど。
 すぐそばの小さな崖を下りたところには泳ぐのにちょうど良い沢があったし、もう少し遠くへ行けば、大きなカブトムシやクワガタのとれる林もあった。それで私たちは、昼には涼しい沢で泳いだり魚を見たりして、夕方にはバナナで作った虫用の罠を仕掛け、そして次の日には朝早く起きて昆虫採集に行く、というのが決まりのようになっていた。
 ある日の夕方、コテージの中でぼんやりとしていたところ、外から父親の声がした。聞けばセミの幼虫だと言う。それで私ははね起きて外へ飛び出していった。
 子どもというのはセミの抜け殻を集めるものだから、その形はみなよく知っているだろう。大きくて丸いビーズみたいな目に、つやつやつるんとした形の胴体。それを支える小さな脚の一番前に並んだものには、たくましくて立派な爪がついている。そんなセミの抜け殻と同じ形をしてはいたが、そこにいたのは全くの別物であった。
 抜け殻よりも濃い茶褐色に輝く体、そしてそこについたくろぐろとした目は、抜け殻なんかと全く違った存在感を放っていた。今ここに生きている、と強く主張しているように。
 そこで私ははっとした。夏に嬉々として集めていたあの茶色いカサカサの物体は、かつて紛れもなく命が入っていた跡であったのだ。頭で分かったつもりになっていることと、命を目の前にして感じることは違うということも、そこで私に刻み込まれた。そのくらいに、目の前を小さく歩くセミは私に強く衝撃を与えたのだ。
 父は、せっかくだから羽化を観察しよう、と言った。
 具体的にどういう方法をとったのかは、正直あまり覚えていない。確か割り箸をコップに固定したのだったか、と思う。とにかく、セミは少し薄暗いところに置かれて、彼なりに納得のいく位置を見つけてしばらくの間じっとしていたのだ。
 私はその脇であわただしく、鉛筆とノートを準備した。こんな良い機会なのだから、記録しなければと思ったのだ。
 気もそぞろに夕飯を食べて、またセミに向かう。この頃は生物スケッチの知識なんてなかったが、できるだけ同じように描こう、と考えていた。大きな目、ぴんとした触角、足の節、体の節。かわいさとかっこよさを兼ね備えている、なんて素晴らしい生き物だろう、とうっとりした。
 やがて、セミの背中に亀裂がはいった。亀裂は少しづつ横に広がって、少し薄い色の中身が見えてくる。
 私はそれを隣のページに描き起こした。セミの姿とノートのそれぞれに絶えず視線をやりながら、気付いたことや考えたこともすべてメモしていく。
 セミは白くてくしゃくしゃの身体を茶色い殻から引き出しながら、ゆっくり、ゆっくりとのけぞっていく。気持ちよさそうにぐっと弧を描いた体は、青っぽい三日月みたいだ。しばらくそのままになっていたかと思うと、満足したように体を持ち上げた。元の体から、同じような節のついた新しい体を引き抜いて、羽を乾かすようにまたじっとする。はじめはまるで絞ったタオルみたいだった羽は、見知った形にひろがってゆくのだった。
 自分でも驚くような速さでセミの絵を描き、またセミに目をやる。姿に変化があるたびその部分を新しく描いていたから、セミの絵はもう何ページにもわたっていた。
 私はまだ青白いセミを眺めた。よく知るセミと全く同じ形だが、その姿はかがやいて見えた。それは色のためだけではない。すべてのセミの一生に、この魔法のような不思議な変化があることを、彼が教えてくれたからである。
 小学生にしては遅い時間の就寝の後、朝になるとセミはもうどこかへ行ってしまっていた。コテージの外、耳にわあわあとひびくセミの音の中のどこかに、あの個体の声が混じっているのかもしれない。
 セミは、地上に出てから羽化して成虫になるまでにその多くが命を落としてしまう、というのは後に知った話だった。つまり、辺りでいっぱいに生きているすべてのセミは、幸運の体現者なのである。
 私たちの観察のために無事に羽化できたセミは、もし何かが違えば、例えばアリなんかの命を救っていたのかもしれない。だが確かに私はあの一匹から大切なものを教わったのだ。何が正しいのかは分からないけれど、今でも私はあのセミに大きな感謝の念を持っている。
 今年もまた、セミが鳴きだした。

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